工場を経て(船越拓/東京大学工学系研究科建築学専攻修士課程)
マテリアルの死
前稿において私は他律的なマテリアル(素材)を考えたいと述べた。しかし一方で、現代の日本の多くの都市においては、その環境のもつ重量が均質化してしまっているという状況がある。地面には コンクリートの基礎が打設され、 その上に無数の工業製品をもって建物が組み上げられる。私たちの都市にはそうした建物が林立しており、そこでは、その敷地が潜在的にもつ他律的なマテリアルは発見されない。したがって、他律的なマテリアルを考えることは、ほとんどの日本の都市では不可能に近いだろう。
そこで、一度マテリアルというパラメータを据え置き、スケールというパラメータを新たに加えたフォームとスケールの2つの軸によって都市の建築を考えてみたい。
スケールの自律性・他律性
フォームが建築の記号性を示すのに対し、スケールは建築の単純な大きさを示す。建築のスケールは、それがどう使われるか、つまりはそのプログラムによって規定される。クライアントから求められる必要諸室があり、そこに寸法が与えられることで大きさが生まれる。その時点では、建築のスケールは自律的であるといえる。 しかし、多くの建築家はヴォリュームスタディ——ある縮尺をもって敷地周辺の建物の模型を作り、それらの大きさと設計する建築の大きさの関係性を検討する——を行うだろう。 そのときになされる操作によって最終的に立ち現れる建築のスケールは自律的にも他律的にもなる。例えば、周辺建物の大きさに合わせるために、高さを制限したり、分棟したりといった操作が行われると、 その建築は他律的なスケールとして世界に現れる。一方、( 個体性をもつ物質をオブジェクトと呼ぶならば、)建築のオブジェクト性を重視し、周辺建物の大きさとは無関係に敷地に対して自律的なスケールを建築に与えることもある。原広司による京都駅ビルを想像すると理解が容易になるだろう。このように、建築のスケールも自律性と他律性で記述できる。
きのこと工場
昨今、環境問題への関心からだろうか、生態学の理論を引用して、家畜や虫、菌類など、人間よりも小さなものを対象としてリサーチを重ね、小さな建築を作る日本人建築家や建築学生が増えてきたように思う。彼ら彼女らが作る建築においては、建物自体の説明はあまりなされず、あらゆるものとの関係性が主題として語られる。そのように人間以外のものを設計の与件として取り込む行為は興味深い。人間中心主義を脱却しているという倫理的な観点からでなく、それによる建築表現の広がりに対して面白さを感じるのである。しかし一方で、私はそのような建築を見て、体験して、どこか物足りなさを感じている。
私は、関係性で語られる他律的な建築よりも、強いオブジェクト性を有する自律的な建築に心が惹かれる。そして、さらに限定するならば、人間よりも大きなものが主語となる建築に興味がある。それらは、往々にして巨大なスケールで立ち現れる。
一例として、Ricardo Bofillが設計したLa Fábricaを挙げたい。これは、バルセロナ近郊にあったセメント工場を彼の自邸やオフィス、レストランとしてリノベーションした建築である。この建築のスケールは、サイロや煙突など、人間よりも大きな機械によって規定され、量感をもった存在として街に現れている。その内部には、人間の身体から逸脱したスケールで構築された大きな空間があり、そこには人を感動させられる力がある。また、外部に目を転じると、その巨大なスケールと象徴的なフォームによって、街の住人たちは日々その建築を目にし、心に像を結ぶ。転じて、共同幻想(ある集団の中で生み出され、共有される幻想のこと。)を形成するモニュメントとして立ち現れているといえるだろう。