東欧の土塗り板倉(樋口貴彦/建築家、職業能力開発総合大学校 准教授)
東欧の土塗り板倉
2022年2月に始まったウクライナ戦争では、冬から春に季節の移り変わる際に寒暖差で草原が湿地に変わり、車両の進行に大きく影響を与えることが度々報道されてきました。車両が機動力を損なうほどの粘着力を持つ泥は、水田が広がる日本に暮らす私たちには日常的な存在であるものの、耕地や牧草地が広がる欧州ではどこにでも広がっているわけではない。土質については専門外なので詳しくないが、筆者が散見した限りでは、東欧では西欧に比べて土を建築に用いる機会が多い。それだけ泥や土が身近なのだろう。太田邦夫氏の『東ヨーロッパの木造建築』1によれば、古代のスラブ人は半地下の校倉造の家屋で屋根から壁まで土で覆った竪穴式住居のような家屋に住んでいたという。そうした土の建築技術のDNAが校倉造の壁を土の層で覆ういわゆる「土塗らり板倉」の建築技術に受け継がれているのかもしれない(図1)。欧州の広範囲の伝統的建築物の研究者であるKlaus Zwerger氏の著書『Wood and Wood Joint』2の事例を参考にすれば(写真1)、この技術はウクライナ、スロバキア、チェコ、ポーランドなどのカルパチア山脈に接した国々に分布しているようである。今回はそのKlausZwerger氏の著書を参考に尋ねた東欧の「土塗り板倉」の建築技術について取り上げる。
前稿『山里の木ぐいと土』で日本の山地には、角材を校倉造りに組み上げた井籠蔵や落し板倉に木杭が打ち込まれ、その杭を下地として土が塗られた土塗り板倉が局地的に分布していることを述べたが、この建築技術は日本の山地に特有のものではない。寧ろ東欧から中欧の国々に広範囲に広がる土塗り壁の技術と共通している。『Wood and Wood Joint』には、ウクライナとポーランドの国境に接するスロバキア最東部の都市バルデヨフ周辺の集落に分布する穀物倉庫「Sypka」(シプカ)の事例として、類似の技術が用いられている建物が取り上げられているが、実際に現地を訪ねてみると、それらはかまぼこ型の断面に丸太材を組み上げた校倉の外壁に、木杭を打ち込んで土を塗り仕上げた日本の土蔵のような土塗り板倉であることがわかる。
スロバキアの首都ブラティスラバから電車を乗りついで1日かけて東方に向かうと、夜には中世に形成された広場と街並みを残す古都市バルデヨフに到着する(図2)。バルデヨフの周辺には、天然の炭酸水が湧き出るなだらかな丘陵地が広がり、丘陵の間に100軒程度の家屋が並ぶ小規模な集落が点在している。その中でも『Wood and Wood Joint』で「Sypka」の事例が紹介されているガボルトフやペトロバ集落は、小規模な教会と小川を中心に周辺にオオカミが出るという森と牧草地、木の実や野草を採取して暮らすロマの集落が付属するのどかな集落である。舗装されたバス通りに面して舞口の屋敷地が短尺状に接道して通りに面して主屋、その奥に「Sypka」さらにその奥に家庭菜園が続く。土塗りの「Sypka」が各屋敷地の奥に覗く姿は、日本の農村に土蔵が点在する様子を思わせる景観である。
北海道の諸都市よりも北に位置するバルデヨフ周辺の地域の気候は、夏は快適でラズベリーやブルーベリーが家庭菜園にたわわに実るが、冬は1日の最高気温が氷点下以下になる日もある。共産主義時代には貧弱なコンクリートブロック造の建物も建てられたが、それ以前に建てられたと思われる伝統的な家屋は基本的に木造で、丸太材や角材を積み上げた校倉造となっている。伝統的な主屋の屋根は急勾配の寄棟造や入母屋で本来は板葺きや茅葺きであったものを、トタンなどの金属板で葺き替えている姿が、どこか日本の鄙びた農村の様子にも似ていてノスタルジックな印象を受ける(写真2)。間取りに関しても火を起こし調理や作業を行う日本の家屋の土間にあたる空間がり、その土間を挟んで2つの居室に分かれているのが特徴的である。日本の家屋と大きく異なるのは、土間を挟んだ2つの居室がそれぞれ独立した校倉造の壁面で構成されていることと、その壁構造の特性から窓は小さく設けられ、日本の家屋のような開放性がない点である。寧ろ冬の寒冷な気候に耐えられるように機密性を保つために校倉造りの壁部材一段ごとに部材の継ぎ目にスサもしくはコケが混じった泥を塗り込み、さらに屋外に面した壁面ではその上に木材の杭を壁面に打ち込んで、壁面全体を土で覆うように土を塗り重ねている。田舎の景観として日本の農村と類似性を感じるのは、電力や水道のインフラ整備のタイミングで時代ごとのライフスタイルの変化の影響を受け、主屋については土間部分を現代的な居室として改修した家や、一部を残してコンクリートブロック造に建て替えた家が散見されるからだろう。
主屋の場合とは逆に穀物倉庫の「Sypka」は昔ながらの姿で、敷地内に残されている場合が多い (写真4)。「Sypka」の写真ばかりを撮っているうちに集落住民に怪しまれた私は村長の息子で地元の小学校の英語教員をしている青年から詰問を受けることになり、逆に伝統的な建築技術に関心がある旨を伝えるとその青年が何軒かの「Sypka」の所有者を紹介してくれたので、建物内部を確認する機会を得ることができた。その結果、基本的に「Sypka」は2層構造で、一階にパンの原材料となる大麦を収納する木造の櫃を置き(写真5)、2階は干し肉などを吊す場所として活用していたことがわかった。中には1階に工作道具を並べてガレージとして使用している事例もあり、日本の土蔵の多くが、既に穀物庫としての本来の機能を失い、古い家財の物置場として使われているのと同様に、「Sypka」も本来の役目を失いつつあるものの、貯蔵庫やバックヤードとして様々な用途で使われているように見えた。
「Sypka」には外壁を土で覆ったものと、そうでないものがある。土で覆われたものが完成型であり、土で覆われていないものは、家々の事情により壁が仕上げられていないものでそれらが混在しているのである。(この点も日本の土塗り板倉の状況によく似ている。)土で覆われていない事例の細部を観察すると、特徴的なかまぼこ型の外型は、2層部分の外壁に丸太や半割りの木材を用いる際に、建物の妻面の部材を上部の部材ほど短くして重ねているため、壁面と天井がアーチ状に連続することで成り立っていることがわかる。それにより樹木の先端に近い細い断面の丸太材を有効に活用できる点や、天井材や桁材を別途加工する手間を省くこと、さらに2階の床を支える梁を壁の外側に持ち出して屋根組みを独立した登り梁とすることでかまぼこ型の本体と屋根構造の間に空間を設けて、屋根面からの遮熱性を高め、雨漏りを防ぎ、壁面や天井面の外部に土を塗り貯蔵庫として適切な湿度や温度を保てるようにするなどの理由があったものと思われる。またこのようなヴォールト局面を構成する校倉造の建築技術は、スラブ語圏の木造教会の礼拝空間や尖塔のデザインにも見られることから、この「Sypka」の形態はスラブ語圏の宗教建築からの影響も感じさせる(図4・5)。
板壁への土の取り付け方は、八ヶ岳山麓の土塗り板倉に見られる手法と同様で、板壁に広葉樹で作られた硬い木製の杭を打ち込み、それを支えに荒壁のように泥を5〜10cm程度塗り、最後に漆喰に似た材料で表層を仕上げている(写真6)。木製の杭を壁面に打ち込む際には、あらかじめ壁面に杭の先端が刺さるように穴を開けるらしく、専用の金槌のような道具も木製の杭と共に「Sypka」に保管されていた。この木の杭を用いた土塗り板倉の手法は「Sypka」や家屋のみならず、共産主義時代以前に建てられた都市部の学校建築にも用いられており(写真7)、耐火性能や都市の美観への貢献も期待されていた様子がうかがえる。しかし、東欧諸国においても日本においても近代以降は土塗り板倉の技術が受け継がれていない。このまま消え去る技術なのか、異なる形で復活の余地があるのか現在はまだ不明なままである。
参考文献
1)『東ヨーロッパの木造建築』太田邦夫, 相模書房, 1988
2)『Wood and Wood Joints』Klaus Zwerger, BrikHäuser, 1997