瓦の建築考

海峡に生きる(小南弘季/東京大学生産技術研究所)

小南弘季

日本最古の瓦とされる淡路瓦の風景を探して、淡路島は明石海峡大橋のたもとのまち岩屋(いわや)を訪れた。そこで見たものは単に美麗な甍の波ではなく、岩礁にはりつくように懸命に構築された密実な住居の集合であり、いぶし銀の屋根瓦が海から射し込む強い日差しを滑らかに散乱させていた。なかでも石屋神社の籠り殿の長大な瓦屋根が瓦に対するこの島の矜持を示していたのである。

対岸のまち
岩屋は淡路島の北端、明石海峡に面する海と山に挟まれた浜辺のまちである。古代より交通の要衝として重視されてきた〈海峡のまち〉でもあり、藤原定家によって詠まれた「松帆の浦」はあまりにも有名である。現在は明石海峡大橋のたもとに位置する明石市街から30分超、姫路市街から1時間程度で通うことのできるまちとして知られている。都市に住む人びとに再生産の機会を与える〈対岸のまち〉であるともいえるだろう。
明石海峡大橋を渡り、島に上陸するとまず巨大なサービスエリアと大きな観覧車が目に入る。自動車道は山の上を通っているため、多くの人びとは岩屋のまちの姿を見ることもなく、一休みしたのちに島内のほかの場所を目指して通り過ぎていく。
まちへと下る途中に、青々とした松林の先に海が広がる美しい風景を望むことができる。松林に沿って少し走ると、砂浜と漁港に隣接した駐車場に到着する。駐車場の大きさから、ここが昔から観光客を受け入れてきた場所であること、それだけの対外性と公共性を有する都市的な場所であることを理解した。
周囲を見渡すと、斜面に張り付くようにして建ち並ぶ住宅やそれらの上にそびえ立つ観覧車、海から突き出た巨大な岩の島「オノコロジマ」とその上に鎮座する絵島神社、防波堤と釣り人たち、たくさんの漁船とその奥に架かる巨大な鉄橋など様々な要素が目に映る。これら複数の要素の存在がこのまちの都市性を示すとともに、それらが同時に目に入ることがその領域の狭さ、つまりは都市に満たないのまちであることを示していた。

兵庫県淡路市岩屋周辺

海峡の地政学
かつて石屋と称したこの場所は古代からの地政的な要所であり、延喜式内社である石屋神社や先の絵島神社のように由緒ある神社が多数鎮座している。中世以降は、水運交通の点から淡路の要港であると同時に、明石海峡に面し大阪湾と瀬戸内海を結ぶ軍事上の要地でもあった。戦国期には幾度もの戦の舞台となり、その後も砲台の設置など、その警護が固められた。
近代以降も明石の対岸の漁港として、また島の沿岸を南下する道路の起点のまちとして発達していく。そうしたなか、大きな転機となったのは1998年の明石海峡大橋の開通であった。明石と陸路によってつながったことは、淡路島全体の経済活動に良い影響を与えた一方で、岩屋自体にとって複雑な状況をもたらした。元来の島の玄関口としての性格は失われ、水運が陸運に置き換わってしまうなど、その産業構造に大きな変化が起こったのである。
対岸からの距離が近くなったことで観光地としての開発が進められていったが、こうした開発の多くはこの場所を〈対岸の島〉としてみた、まちの生活とは切り離されたものであった。しかし、近年では、地域に根付いた観光産業の発達に伴い、元来の美しい風景や趣のある商店街が再評価され、旅の行先として再び注目されるようになってきている。小さな飲食店や銭湯など、都市からは失われつつあるものがもつ魅力を引き出すことで、地域の生活とのバランスをとりながら観光を受け入れている。

約1平方キロメートルあたり人口1,945人のまち(地域標準メッシュno.51357001の航空写真、GoogleEarthより)

巨大化した漁業集落
岩屋には計画によって整備されたまちではないが、その発達の順序に従って大きく3つの地域に分けて考えるとまちの空間構造が理解しやすくなる。1つ目は、現在の商店街を核とする傾斜はあるものの比較的平坦な土地に形成された扇状の町場である。この町場とその中心部を流れる茶間川上流の谷地の集落が前近代からの住居群である。2つ目は、上記の町場の背後や岩屋城山の裏側に回り込むように拡大した斜面地上の住居群である。
上記2つの住居群は限られた土地にできるだけ多くの住居を建てるため、住居同士の隙間や庭などの空地をほとんどもたず、商店街や主要な通りを除き、狭い路地を介して高密度で建てられている。これらは漁業集落に普遍的な土地利用であるといえる。商店街の通りは背後の山の地形や港と平行に緩やかな弧を描くように設けられているが、興味深いことに、台地上の寺院参道を除いて、商店街に直行する路地の多くが商店街を挟んで互い違いになっている。また、背後の台地に通じる道も少ない。こうした「軸の通らなさ」は、利便性より地形に応じることを優先したことや、無計画な拡大などに由来すると考えられるが、このような行き止まりの多い構造がかえって岩屋の空間を独自なものとしている。
斜面地には寺社や小学校のように公共性の高い施設が存在しており、元来はまちの端に位置していたこれらを飲み込むようにして宅地の範囲が広がっていったことが読み取れる。また、茶間川沿いの町外れにマンションが数棟建てられていることから、新婚夫婦や子育て世代の需要があること、そしてそれらを受け入れるためにまちの構造も常に変化してきたことがわかる。
一方では、1980年代より、のちの明石海峡大橋開通に合わせるかたちで沿岸の道路と山上をつなぐ道路の建設工事が始まる。車道が通されたことによって従来は農地として利用されていた土地の宅地化が進み始めた。これが岩屋の3つ目の地域である。この地域は岩屋のなかでも最も高い場所に位置し、まちの中で最も見晴らしの良い場所となっている。元来の棚田を部分的に造成して宅地化しており、現在も農地が多く残ってはいるが、同時に耕作放棄地も多い。また近年にかけて、海への眺望が特に良い土地には別荘や週末住宅、そして高級宿泊施設が増加しており、〈対岸のまち〉としての需要を再び受け入れ始めている。

まちと観覧車

海をのぼる、岩をのぞむ
岩屋を実際に訪れるまでは、まちの様々な場所から明石海峡大橋を見ることができるだろうと期待していた。しかし、そのような場所は限られており、滞在していた多くの時間を迷路のような路地や等高線に沿って通された道の上で過ごした。
行き止まりが多く、視線の抜けのない路地を曲がったり、のぼったりしながら漫然と歩いていると、不意に海に直行する太い通りや崖上の道に出ることがある。その時だけ、視界が開け、海や漁港、大橋の姿を望むことができた。それは登山の際に体験するような感覚に近い、昇降運動と連動した視覚の体験であった。
そうした眺望が得られるのは寺院や山上の田畑、そして裏の斜面地から町場へと向かう道など、人びとがかつて日々訪れる場所であった。日々の生活における、まさに岩山をのぼりおりするような動きのなかに組み込まれていた風景は、自動車の普及と産業構造の変化による生活範囲の縮小と遠隔化によって、その共有の財産としての性質を失いつつある。
近隣においては濃密なコミュニティが存在し、路地には豊かな生活風景が息づいている。また、住宅の上階からは美しい眺望が得られるだろう。しかし、まちの中を歩いて回るということが少なくなった現在の暮らしのなかで、まち全体において共有されるような風景は存在しているのだろうか。

断片的な風景

複数の海峡
先に述べたように、現在の岩屋は大きく3つの地域に分けて考えることができる。各地域からは、視点の位置の物理的な高さの違いにより、それぞれ異なる海峡の風景が見える。商店街の建物の隙間から見える漁港のクレーンと鉄橋、崖上の寺院や坂の途中から見える瓦屋根と海、そして山腹の住宅地から見える海峡と対岸の都市というように、このまちには複数の海峡の風景が存在しているが、それらが日々の生活のなかで混じり合うことはあまりない。
岩屋のようなまちを理解するためには、こうした共有されない〈複数の風景〉について考えることが重要ではないだろうか。生活の背景が異なる複数の社会や地域が並存しうるのが「まち」というものの規模であり、岩屋のように長く複雑な歴史を有するまちにおいてそれは顕著に現れる。
山腹の住宅地、そのなかでも別荘や週末住宅、高級宿泊施設はある意味では岩屋の風景を拝借するものだといえるだろう。従来その目線は島やまちではなく、海峡と対岸の都市に向いてきたようだ。しかし一方で、近年においては商店街を中心とした小さな経済が再び回り始めているようであり、それらは都市にはない、スローで暖かい生活と風景を望んでやってきた新しい住民たちの活動の領域を引き込みはじめている。
海峡のまちである岩屋は、対岸の都市とは切っては切れない関係のなかで発展と衰退を繰り返してきた。そして今、社会構造や流行の変化、人口減少によって活気を失っていた商店街の飲食店や銭湯、そして海峡の風景が、日常に近い小旅行や週末居住、あるいは終の棲家の目的の1つとなっている。新たなよそ者が地域の経済を助け、彼らの活動が触媒となって新しい風景が生まれ、まち全体で共有される時がくるかもしれない。岩屋のようなまちに必要なのはこのようなしたたかさであり、都市にはない環境や美しい風景に頼ることであるといえるだろう。

茶間川を渡るだんじり

岩と神社と祭礼
他方において、時代に合わせて変わりゆくなかで変わらないものもある。その1つが岩である。先の絵島や大和島のような岩島は古代より信仰の対象として祀りあげられ、それらは現在においても永久不変の様相を呈している。
私たちが訪れた日はちょうど秋祭りであり、だんじりが町中を曳かれていく様子を見物することができた。こうした祭礼や神社も形式は変わりつつもなくならないものの1つである。だんじりの発着点である石屋神社の社務所兼籠り殿兼門守殿は、そのゆったりと横たわるフォルムと瓦屋根のそり、淡路瓦のいぶし銀の深い光沢が見事な優れた建築であるが、姫路城を現在の姿に改修した池田輝政の手による建設当時の姿を残しており、その屋根瓦は姫路城に使っていた瓦を移したものであると氏子の方に聞いた。それほどに厚い保護を受けていた石屋神社の存在は、このまちの歴史的な重要性を物語る。そして、現在にいたるまでこのまちの住民たちの誇りであり続け、精神的な中心であり続けているのだ。
この日はだんじりを見るためにまちの隅々から大勢の住民が表に出ており、それぞれ居場所を見つけては思い思いに時間を過ごしていた。その多くはだんじりに並走してまち中を歩き回り、「田舎の祭りは凄いから」と、大人も子どもも皆自慢げであった。これは年に2度のみ共有されるまちの風景であり、まち全体が混じり合う、過去から受け継がれる物語である。

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寄稿者
小南 弘季
小南 弘季
東京大学生産技術研究所
1991年兵庫県生まれ。専門は都市史(日本・近世近代)。東京大学生産技術研究所助教。博士(工学)。小中規模の神社を中心に都市や集落の空間史研究に従事。 現在は低密度居住地域の風景の研究を通してディスクリートな社会の構想を試みている。また、近現代ブラジルにおける文化と建築に関する研究グループを立ち上げ、オルターモダンな建築のありようを指し示すべく活動中。
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