瓦の建築考

ポリクロームの海岸線(小南弘季/東京大学生産技術研究所)

小南弘季

瓦屋根の建築を都市で見ることは少なくなった。それは瓦の生産を主要な産業としている都市であっても同様である。今回、日本三大瓦の筆頭である三州瓦がつくる風景を見ようと、愛知県は知多半島の中央部に位置する小さな街道沿いのまち布土(ふっと)を訪ねた。三州瓦の生産拠点である高浜や碧南、半田の市街地から数キロメートルほど離れた小さなまちに瓦屋根の風景はしっかりと残っていたのである。

甍の波が残るまち
布土は知多半島中央部に位置する海沿いの小さなまちである。知多の中心地である半田を出て、工業地帯の住宅街を過ぎると、車窓の風景を占める瓦屋根の割合が段々と増えていくことがわかる。知多半島の付け根にあたる衣浦湾一帯は製造業で発展し、その沿岸には広大な工業地帯が広がっている。なかでも、瓦の製造はこの地域における伝統的な産業であり、三州瓦と呼ばれるそれらの瓦は全国最大の生産量を誇っている。しかしながら、住宅の工業化が進み、瓦そのものの需要が減った今、新陳代謝の激しい市街地において瓦屋根の住宅を見ることは少なくなってしまった。それは瓦製造の中心地である高浜や亀塚においても同様である。一方で、市街地から少し離れた場所に目を向けると、かつては当たり前であった甍の波の風景が残る場所がある。布土とはまさにそういう場所であった。
知多半島の先端に位置する師崎漁港と半田を結ぶ旧師崎街道に沿って形成されたいくつかのまちの1つである布土は、工業化も市街化もされていない、そのほとんどが住宅によって構成される、いわば〈低密度なまち〉を象徴するような場所であった。
町外れに位置する河和口駅で下車すると、目の前には穏やかな海と砂浜が広がっていた。駅前は旧街道と国道の交差地点であり、朝食の客で賑わう素敵な外装の喫茶店が建っている。旧街道を北へ上がっていくと、立派な瓦屋根をもつ住宅が軒を連ねる、期待通りの町並みが現れた。そして、想像していた以上に布土の甍の波は色彩豊かであった。

愛知県知多郡美浜町布土周辺

富貴の外れ
布土という地名は富貴の端を意味する「富貴外」に由来する。交通の要衝であった富貴に付属するようなかたちで発達した村落だったのであろう。天文から天正にかけての短期間ではあるが、北部の丘陵に城が構えられていたこともある。布土川を中心とした沿岸から丘陵地までがこのまちの領域であり、農業と漁業を主な産業としていた。人口が多く、他村への出小作や黒鍬稼ぎ、いさば船による運送を行うものもあった。明治中頃に精米用の磨砂の採掘が始まり、最盛期には知多半島一の生産を誇るようになった。これに伴い、磨砂の運搬に使うビク作りや副業の藁細工も盛んになった。また、瓦の製造業が活況であった時代には、高浜や亀崎に稼ぎに出ていた人も多かったと聞く。
現在、住民の多くは近隣の市街や工業地帯に出勤している。まちの北側には少数の工場が集まる街区があり、ある製函所では大勢の女性たちが楽しそうに働いていたのが印象に残っている。かつてはもう少し多くの工場があったようだ。
まちの中には、コンビニはあるが飲食店はなく、病院や高齢者施設は充実しているものの、中学校や役所などの公共施設は南隣の河和という港町に集中している。また、まちの北端にあった布土駅が2006年に廃止され、まちの名を冠した鉄道駅がなくなった。そして、まちの西部には低い丘陵の間に水田が広がるかつてとあまり変わらない風景が残っている。

約1平方キロメートルあたり人口1,272人のまち(地域標準メッシュno.52361763の航空写真、GoogleEarthより)

5本の主軸
布土のまちの空間構造について戦後から大きな変化はみられない。南北に5本の太い通りがはしっており、これらがまちの空間構造の主軸となっている。1つは旧師崎街道であり、布土川の北側で2本に分岐する。2本のうちの東の方が旧街道であり、これより東側は湿地であったと考えられえる。この地はしばらく農地として利用されており、部分的に大きな屋敷が建っていたが、1980年代に入ってから住宅地として開発された。
3本目は内陸側の集落内を通る幅が狭く折れ曲がった道であり、こちらの方が古い道であると考えられる。近世に由来するこれらに加え、国道と海岸通りが後からつくられた。2つの集落は3本の旧道に沿って進展し、のちに集落間の農地を埋めるようにして住宅地が広がっていった。また、これらの旧道に直交するかたちで、おおよそ1つの屋敷地ごとに1本、細い路地が通されている。住民たちはこの狭い路地を通り、主要な通りに出る。車どおりが多いため、国道を歩く人はほとんどいなかったが、旧道では多くの人や車が行きかいしており、立ち止まり会話を楽しむ住民の姿を見ることもできた。
それぞれの敷地は、その大きさによっても異なるが、類似した空間配置を有している。多くの場合、敷地の北側目一杯に横長の大きな屋根をもった母屋が配置され、南側に小ぶりな納屋が付設されている。納屋は土地の形状によって、母屋の東端に直交するものと離して平行に置かれているものに分かれていた。旧道に面する住宅は基本的に、道に対して(塀や生垣、建築によって)閉じたふるまいをしているが、なかには長屋門のように通り抜け可能な納屋をもち、敷地内の様子が窺えるものもあった。
増築や新築によって敷地内の建物配置は複雑化しているものの、多くの家において南側の一部分が開けた空間として残されている。かつて農作業やビク作りを行っていた空間であるが、そのような作業がなくなった現在においては、それらの多くが立派な庭に作り変えられている。路地を歩くときに、納屋と納屋の間を庭木の緑が見え隠れする様子が印象深かった。
ところで、近年空き地が増加しており、その多くは駐車場として利用されている。訪れた日にも解体工事が行われており、駐車場にするそうだとのうわさ話が聞こえてきた。かつては集落のあちこちにあった畑も今は多くが荒れ地となっている。

空き地越しに見る屋根の連なり

斜線の重なりとポリクローム
このまちでは様々な場所や角度から瓦屋根の連なりを見ることができる。道が緩やかに曲がっていることや建物の高さにばらつきがあることによって、屋根の斜線が重なり、道の奥へと連なっていく美しい風景が生まれている。瓦の1枚1枚のざらつきや反射光のきらめきが見るものの目を惹きつけ、奥へ奥へと優しく誘う。また、建物の向きが適度に混ざり合うことで、見る角度によってイメージに変化が加わり、その風景をより奥行きのあるものとしている。それらはまるで稜線のようであり、広い空を滑らかに、そしておおらかに切り取っている。
伝統的ないぶし瓦を用いた建物(築90年ほどと聞く)が最も多いが、風合いにばらつきのある銀色と庭木や生垣の緑が良い対比を生み出している。一方で、オレンジ色や青、赤、そして他所ではあまり見かけることのない緑色の瓦を用いた建物も散見される。銀色の波の中に多様な差し色が入った情景は想像するよりもずっと美しいものであった。また、あちこちにできた空き地を通して、そのようなポリクロームの稜線を遠方に見ることもできるようになった。我が物顔で繫茂するセイタカアワダチソウの黄色い花がポリクロームの甍の波によく似合っている。荒地化した空き地がつくり出した布土の新しい風景である。

断片的な風景

瓦屋根がつくる建築
瓦が身近な存在であり、愛着が深いからこそ、新しく屋根を葺く際には様々な色のものを試みたのだろう。そして、このような瓦への愛着は、それを前提とした建築のありようとしてまちの随所に表れている。一つに寺社仏閣の堂舎や社殿が挙げられるが、なかでも葦航寺にある一間四方の小さな大師堂は、本体の倍以上ある優美な反り屋根を二手先斗栱で支えており、とても印象に残る特別な建築であった。また、半田や潮干祭で有名な亀崎と同様に、布土でも(各集落に1つずつ)3つの知多型山車(「御車」と呼ばれる)を曳き廻すが、その巨大な山車蔵にも屋根の勾配を魅せるような意匠が用いられている。山車蔵の前には空地が設けられているため、その堂々とした立ち姿が遠くからでもよく見え、集落のランドマークとなっている。
そして、住宅の屋根を忘れてはならない。その屋根の大きさや勾配、向きや色彩が特異な風景を生み出していることは先に述べたとおりであるが、より注意深く見ると、多くの家屋敷において下屋や張り出し部が設けられ、そして必要以上に屋根がかけられていることに気がつく(さらに差し掛け屋根の付け根には漆喰による伝統的な縞模様が施されている)。このように屋根に屋根を重ねるような美学は瓦への愛着の表れであるといえる。建売型の新興住宅にさえ瓦屋根を強調した意匠を施していることからも、その想いの強さを感じることができるだろう。

夕暮れどきの知多湾

裏庭としての海岸線
最後にこのまちと海辺の関係について記したい。かつて師崎街道の東側には松などが広い範囲に植えられており、海風から街道の家々を守ってきた。その先には畑と砂浜が広がっていたが、戦後に防波堤がつくられ、その上や内側に道が整備されるようになり、少しずつ海辺の環境は変化していった。前述のように布土川北側の大きな農地(もとは湿地であった)が住宅地として開発されたことも海辺の風景に大きな変化を与えた。
時代が下るにしたがって海辺の林は徐々に宅地に置き換わっていった。道路に面した不整形な土地は駐車場として利用されるようになり、住民の日常生活に不可欠なものとなった。ただし、一部が児童公園として整備されたり、大きな庭園をもつ屋敷が残っていたり、堤防沿いには松が植えられたりと、いまだに緑は多く残っており、現在も静かな散歩道として愛されている。
旧街道の海側には新築の住宅がいくらか増えてきているようであった。それらの多くは西洋風の住宅で、2階にはバルコニーが設けられ、海を眺められるように設計されている。また、堤防上の道は、夕方になると散歩やジョギングを楽しむ人で賑わう。多くの人びとがすれ違いざまに挨拶をしている様子にこのまちの豊かさを感じた。布土において、海は生産を行う場所から日々の再生産を行う場所へと少しずつ変化してきたのだろう。彼らだけの海辺であり、まちの裏庭であるといえる。
海の向こう側にはJERAの火力発電所や工業地帯が見え、海上にはタンカーが行きかっている。まちから見える風景のこうしたドラスティックな変化こそが戦後日本の復興と発展そのものであった。一方で、布土の浜には今でも複数の小型の漁船が浮かび、少し沖合いにはあさりの養殖のための支柱が並んでいる。漁業を営む家もまだ多いと聞く。しばらくの間、淡い多彩色の夕陽のなかに漁業の営みと火力発電所が重なり合う風景を堤防の上から眺めていた。その前を、人びとが同じ風景を眺めながら歩いていく。海辺を歩く彼らもまた、現在のこのまちの様相をつくり出す色彩なのである。

寄稿者
小南 弘季
小南 弘季
東京大学生産技術研究所
1991年兵庫県生まれ。専門は都市史(日本・近世近代)。東京大学生産技術研究所助教。博士(工学)。小中規模の神社を中心に都市や集落の空間史研究に従事。 現在は低密度居住地域の風景の研究を通してディスクリートな社会の構想を試みている。また、近現代ブラジルにおける文化と建築に関する研究グループを立ち上げ、オルターモダンな建築のありようを指し示すべく活動中。
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