瓦の建築考

Brutality Garden – 蛮行の庭園(小南弘季/東京大学生産技術研究所)

小南弘季

小南弘季(東京大学生産技術研究所)

#低密度な風景
これまでに紹介してきた3つのまちはある点において共通している。日本の瓦の三大産地であるということは言わずもがな、重要なのはそれらの人口密度である。より具体的には、総務省統計局によって定められたおよそ1キロメートル四方のグリッドである規準地域メッシュ(第3次地域区画)の人口が1,000人から2,000人であり、かつ2,000人以上のメッシュと隣接しない地域であるということだ。

わたしはこのような低密度な地域を対象として、その場所に形成された空間と風景を、人びとの生活や社会構造との関わりあい、そして身体的な感覚に重点を置きながら調査している。のちに詳述するように、こうした人口密度の地域は都市でも生産後背地でもない場所にみられることが多いため、それらを便宜的に「低密度なまち」と呼んでいる。

「低密度なまち」では都市と比較して建物の更新が遅く、もとより伝統的な素材や構法を用いた建物が多く残っている。また空地の面積が大きいため、建物が連続する様子をより大きな情景として視認することができる。紹介した3つのまちにおいて美しい瓦の風景が存在したのもこうした原因によるところが大きい。

一方で、「低密度なまち」には瓦や建築物にとどまらない魅力が存在している。低密度であることによる余白や地形の豊かさ、都市のような厳正な制御下にないことによる空間構築の自由度、そこかしこに残る文化や生活の形跡など、低密度なまちがもつ豊かな風景について、そのエッセンスを紹介したい。

低密度なまちのドローイング(高知県安芸郡東洋町白浜周辺)

#都市と生産後背地のあいだ
最初に「低密度なまち」の特徴について説明しよう。通常人口密度というと、その分母となる領域は行政区域や都市計画区域など恣意的なものであり、多くの場合において広すぎたり、狭すぎたりするため、実際の空間利用のありようとそれらの数字が感覚上一致することはあまりない。その一方で、1キロメートル四方のメッシュにおいて人口密度を測るメリットは、山林や湖海などの周辺環境を含めた密度によって空間利用を評価できることにある。

また、1平方キロメートルあたり1,000から2,000人という数値は、神代雄一郎がかつて言及したコミュニティーの成立に必要な人口が千人以上であること※1、そして総合地球環境研究所の「メガシティ」論における2,000人が都市と非都市の境であるという分析に依拠したものである※2。城壁都市を主とする西欧世界に対し、水稲栽培のための田園集落を主とするモンスーンアジア、なかでも長期にわたる安定した政治体制によって街道が発達した日本において、上記の人口規模を有する地域が多くみられる。

日本においては約1,700か所の低密度なまちが存在しており、興味深いことに1キロメートル四方のなかに1つの住居集合のまとまりが収まることが多い(それらが複数メッシュにわたって連続する地域も存在するが)。小学校区の単位距離が1キロメートルであるということも考慮すべき事実だろう。

この密度規模にはさまざまな都市類型が含まれるということも重要である。布土が街道集落を核に発展したまちであるのに対して、岩屋は港町、古浦は漁村集落をもとにしていたことが思い出されるだろう。ほかにも城下町や宿場町、門前町、在郷町、温泉町、鉱山町、農村集落などを核として戦後に拡大したまちや、あるいは戦後に開発されたニュータウンがこの規模に該当している。これらのまちは、産業や交通の変化によって都市にならなかった場所であるともいえるが、一方で現代における1つの指標となる人口規模を有する住居集合であるということができる。

低密度なまちの多くは都市と生産後背地を中継する、いわば生産と消費の結節点となるような場所に位置している。本研究では、都市と集落のあいだに位置し、両者の性質をもつ〈まち〉の風景とその空間が有する潜在力に期待している。

50の低密度なまち

#余白と境界
低密度なまちの多くは都市や集落のような空間構造の明確さをもたない。それらは複数集落の集合であるとともに戦後の居住区域の拡大を含むからだ。よって、これらのまちは多くの空地をその内部に抱くことになる。同時に、(地形を拠り所にして形成された)伝統的な町が核となっているため、その地形は複雑なものが多く、都市化が十分に進んでいないこと、空地が多いことにより、微地形を感じやすい。それぞれのまちは(普遍性はみられるが)個性的な形態と歴史を有する空地を有している。

このような余白の空間がどのように利用されているかが低密度なまちにおける観察対象となる。また、これらのまちは自然環境に隣接しているため、しばしば空地や街路には植物や動物、あるいは砂や雪、風が入り込む。それらに対する境界装置のありよう、つまりは余白の空間に対する建築的ふるまいにも、まちの個性があらわれるのだ。そして、それらにはそのまちの産業や文化が大きく影響を与える。まさに3つのまちにおける瓦のように。まちの余白を通してみる境界の立ち現れかたが、周囲の地形を背景にさまざまな風景として表出するのである。

それらの風景は、以下の大きく3つの性質をもって、その潜在的な価値を読み取ることができそうである。

1つ目は「身体性」である。これは低密度なまちの風景が誰もが想像できる1枚の絵葉書のようなはっきりとしたイメージではなく、観察者の動作や五感、つまりは身体感覚に依存して認識されるものであることを示している。それらの風景は刹那的であり、断片的である。例えば、坂道を下りながら望む遠方の風景や振り向くと同時に目の前に広がる風景、強風に吹かれながら目を細めて見る風景などがそれである。

次に「寓喩性(ぐうゆせい)」であるが、これは、これらのまちがその余白の大きさゆえにあらゆる物を並置/放置することができること、そしてその結果、それらの風景がさまざまな時代や集団、事件に関する記憶を同時多発的に喚び起こさせることを示す。

最後に3つ目の「参与可能性」は、住民であれば誰しもがまちの風景の形成と維持に関わることができることを示している。一次産業による継続的な環境改造から、庭づくりのような小さいが連鎖を生みだす活動、あるいは上述のような物の放置まで、環境へのあらゆる参与が可能であり、自立共生の基盤となる。

これらは余白と境界に拠る性質であり、都市においては難しく、低密度なまちにおいて可能な性質であるといえるだろう。

巨大な畑のあるまち(福島県安達郡大玉村玉井周辺)

#「蛮行の庭園」
ところで、これらのような3つの性質をもち合わせた風景を有する、低密度なまちを表す言葉として「蛮行の庭園〔Brutality Garden〕」を提示したい。これは1968年以降のブラジルにおけるトロピカーリアという音楽運動について記された本を読んでいて知った言葉である。ここでは熱帯の豊かさと国家による弾圧が並列状態にあることをはじめ、さまざまな意味をもつ言葉として説明され、本のタイトルにもなっている。「蛮行の庭園」はトルクアット・ネットによって書かれ、ジル・ジルベルトによって歌われた「ジェレイア・ジェラル」(1968年)というトロピカーリア詩のなかに表される言葉であり、それ自体がオズヴァルド・ヂ・アンドラージによるモダニズム小説『ジョアン・ミラマールの感傷的な想い出』(1924年)のオマージュでもある※3。

ブラジルにおいてその言葉が用いられた意図と同じではないものの、「蛮行の庭園」という言葉が抽象的に示している複数の雑多な事物が並列するような状態と、または豊かに植物が生い茂る実際的な描写は、まさに外から入り込んだ「自然」が人間の生活とのバランスを探りながら生き生きと生命を満喫し、それを相手にさまざまな感覚や事物が同居する、低密度なまちを形容するにふさわしい言葉であるといえるのではないだろうか。

一方で、「庭園と蛮行は相反する並列の上で共存する」のであり、低密度なまちでの生活が楽土的であることを示すものではない。そこでの生活は自然環境とのせめぎあいであり、必ずしも都市のように管理され、守られた環境にないということに意識を向ける必要がある。そうした状況のなかでこそ、前述した3つの性質に共通するようなインタラクションやインタープレイ、そして新たなデザイン文化が生じるのである。

左:Brutality Garden: Tropicália and The Emergence of A Brazilian Counterculture、右上:再野生化する街路(北海道川上郡弟子屈町弟子屈周辺)、右下:トロピカ―リア詩「ジェレイア・ジェラル」の一部分(国安真奈 訳)

#断片的な風景を拾い集めること
先にも述べたように、低密度なまちには他所からわざわざ訪れるような特別な風景はない。そこにあるのは小さく断片的な風景であり、それらの多くは文化財として価値の高いものではなく、雑多な要素が入り混じる、とるにたらないものである※4。

しかし、それらの断片的な風景こそが、低密度なまちを描くうえでわたしたちが決して見失ってはいけないものなのである。これらの断片的な風景は、歴史の大きな流れを代表するようなものではない。むしろその流れの大きさと速さに取り残された事物の集合であるといえる。それらはすでにさまざまな物語をもっているが、そのフィクショナリティは小さいながらも新たな渦を起こす中心となりうる。つまり、さまざまな個人によって集合的かつ断片的に形成されてきたとるにたらない小さな風景だからこそ、新たな小さなデザインのアンカーとなるのだ。それは3つのまちでみられた瓦に対する愛着にも等しい。

歴史的に「余白と境界」を多く有する低密度なまちには、個性豊かな断片的な風景が豊富に存在している。それらの風景から過去と現在の複数の物語を読み取り、まちの「蛮行の庭園」としての可能性を見出していくこと、それがこの低密度なまちの研究の中心的な課題である。

左:『断片的なものの社会学』、右:断片的な風景(北海道厚岸郡厚岸町厚岸周辺)

#まちの古くて新しい可能性
低密度なまちは、仕事や教育、娯楽や刺激、そして利便性といった点において都市に及ぶことはない。その一方で、身体感覚や記憶、風景への参与といった、住まうことの豊かさに関わる問題においては都市に秀でる部分もあるだろう。また、山間や浦浜の小さな集落とは違い、ある程度の人口を擁してきた場所であり、生産後背地の中心として交易や政治を担ってきたため、現在でも比較的開放的な空気感を有していることが多い。

都市の中心市街の近くに位置するまちも多く、自動車で通勤することも可能である。また、歩ける範囲にスーパーがあるため、日常的な買い物に困ることもない。都市での生活に慣れ親しんだ多くの人びとにとっては、こうしたまちで暮らすことは困難を伴うかもしれないが、高密度な都市を離れて異なる環境で暮らしたいと望む人にとっては良い選択肢になるだろう。人を新たに迎え入れ、経済を好転させることで、生産後背地と都市をつなぐ拠点としての機能と活気を取り戻すとともに、日々の暮らしにデザインの機会を与える場所となることを期待したい。

※1
明治大学工学部建築学科 神代研究室編『日本のコミュニティ その1 コミュニティとその結合(SD別冊No.7)』(鹿島出版会、1975年)。

※2
村松伸、加藤浩徳著、森宏一郎編『メガシティ 1 メガシティとサステイナビリティ』(東京大学出版会、2016年)。

※3
クリストファー・ダン著、国安真奈訳『トロピカーリア:ブラジル音楽を変革した文化ムーブメント』(音楽之友社、2005年)。※4
岸正政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社、2015年)。

寄稿者
小南 弘季
小南 弘季
東京大学生産技術研究所
1991年兵庫県生まれ。専門は都市史(日本・近世近代)。東京大学生産技術研究所助教。博士(工学)。小中規模の神社を中心に都市や集落の空間史研究に従事。 現在は低密度居住地域の風景の研究を通してディスクリートな社会の構想を試みている。また、近現代ブラジルにおける文化と建築に関する研究グループを立ち上げ、オルターモダンな建築のありようを指し示すべく活動中。
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