余っている身体・動かない器・陳列(岡航世/京都工芸繊維大学修士課程三年)
余っている身体
私たちの日常を取り囲む物品は、日に日に小さく、精密に、そして膨大かつ多様になった。手のひらに収まるデバイスに無数の情報がストックされ、生活に必要な日用品は細かくパッキングされ、コンスタントに消費されては捨てられていく。これは精密な作業が可能になった技術の恩恵であり、それ自体を否定したいわけではない。しかし、こうした「自分より小さい物品」のストックと消費を反復する生活の中で、ふと自分の身体のポテンシャルが持て余されているような感覚になることがある。
この「余っている身体」を日常的なシーンから考えてみる。最近、駅のホームで可動式ホーム柵の設置が増えている。昔はホームと列車の間にそんな扉は存在しなかった。もちろん、ホーム柵は転落事故を防ぐために有効であり、安全を優先する現代社会において、これに反対する方が野蛮な考えとされてしまうのかもしれない。しかし、整然と仕切られたホームに立ち、自動扉が規則正しく開閉する様子を眺めているとき、私はどこか奇妙な虚無感を覚えてしまう。
空間やモノを安全に使いこなすための配慮が行き届き、私たちの注意力や身体機能をそれほど使わなくても済むようにシステムが整備されていく。それは一見すると快適なことのようでありながら、実は、私たちの身体を使いこなす必要性をどんどん削り、結果として私たちの身体を余らせていくプロセスなのではないか。
対照的に、インドに滞在していたときには、まだ完全に止まりきっていない列車の開いたドアへ、人々が手すりを掴んで飛び乗っていく場面を日常的に目にしていた。危険だと言ってしまえばそれまでだが、そこにあったのは、身体のポテンシャルに余りがない、切実で生き生きとした人間の姿であった。
現代の私たちの体はあまりにも「余って」いる。頭や指先ばかりを動かし、全身の筋肉や骨格を使って大きな物体と対峙する機会は日常から消えてしまった。空間やシステムが私たちの代わりに安全を担保してくれるおかげで、身体を目一杯使う必要がない。そしてその結果、体も心も不完全に疲れ切れないまま寝床について、すんなりと眠ることができない。これはなにも人が疲れるために建築を計画したいという話ではなく、人間が自分より大きなスケールにアクセスするための器として建築を考えたいということだ。
動かない器
例えば、私たちは建築の階段を上り、高い屋上やバルコニーに立ったとき、そこから見下ろす街の一帯をまるで自分の手中に収めたかのような感覚を覚えるかもしれない。あるいは、人間の何倍もの高さがある教会の木製ドアや、壁のような本棚を自分の両手で「よいしょ」と押して滑らせた瞬間、自分の身体が力強く拡張されたかのように感じられるだろう。自分の肉体のスケールを超えた物体を、建築のフレームやヒンジという仕組みを借りることで、まるで自分の体の一部のように動かすことができる。その瞬間、私たちは「自分の身体が素晴らしいんじゃないか」と勘違いする。
建築というものは、一見すると地上に固着した巨大で不動の物体に見える。しかし、その成り立ちを分解してみれば、実は人間の手や車輪によって「運搬可能な幾つかの部品」の集積にすぎない。そう考えると、建築には常に運搬可能な部品があり、それらが通ってきた運搬可能な経路があり、一時的に留まるストックの場所があるというイメージが広がる。
この「建築が持つ運搬可能性」と「人間の身体」の関係を明らかにする実験を行った。
2024年8月、既存の建具を数十枚、枠から外し、屋外に敷いたブルーシートの上に1枚ずつ並べる作業を行った。引き戸や襖がブルーシートの上に並んでいく様子は、警察が押収品を並べる報道写真に近かった。畳のように床に敷かれていたものと、建具のように垂直に立っていたものが同じ平面に並べられ、両方とも「ブルーシートの上に効率よく収める」という配列のルールに従うことになる。並べ終えた地面には、歩ける部分と、踏めば割れる部分が、見分けのつかないまま広がっていた。この配列の均質さは、後で触れる瓦や建材のストックが街並みに秩序を与える仕組みと、同じ性質のものだと思う。

写真を撮り終えたあと、私たちはそれらの建具をまた1枚ずつ抱え直し、もとの建築の枠へと戻した。
日が暮れたとき、現場の建築自体にはまったく変化が起きていない。建具はもとあった場所に戻り、空間も朝と変わらない。ただひとつ変わっていたのは、私が疲れているということだけだった。結果だけを見れば無駄な運動かもしれないが、身体に残った疲労感が、その日の運動量を示していた。建築という存在が、どれほどの人間の運搬作業と労力の積み重ねによって成り立っているのかを実感した。
ここまで読むと、私が非効率なことやセルフビルドを単に肯定しているように思うかもしれないが、これはあくまでも「自分より大きなものにアクセスする手段としての建築」の話として読んで頂きたい。
建築は、一度建てられればその敷地から動くことができない。どこかへ移動することも、自ら形を変えて逃げ出すこともできない。しかし、だからこそ面白いのだ。その「動かない器」が敷地に鎮座しているからこそ、その内部や周辺で人間は動き回り、運搬し、モノをストックし、陳列し、所有し、積み上げてしまうことが許される。建築が持つ「動かないことの有効性」を信じたい。動かない器があらかじめ用意されているからこそ、人間はその中でモノとともに活動し、自分より大きな世界へとアクセスすることができる。
ストックと陳列
建築の形をすぐには変えられないとき、その「動かない器」の周りに集まり、空間を後から形作っていくモノたちの存在感が立ち現れてくる。
その一例が、世界各地の集落や街角で見られる「瓦のストック」の風景である。
瓦は、国や地域に関わらず屋根材として重宝されてきたが、その耐用年数は建築全体の寿命や改修の周期と必ずしも一致しない。屋根としての第一の役目が終わった瓦は、すぐに捨てられるのではなく、庭の敷石に転用されたり、後から増築する塀の笠木に載せられて屋根付きの塀になったりと、活用方法は多岐にわたる。そして、屋根から降ろされてから次の用途が決まるまでの間、多くの国や地域で、瓦が家の前の通りや空き地に積み上げられている場面によく出会う。
この、まだ次の用途が決まっていない瓦が家の前に積まれている風景は興味深い。一見すると単なる資材の一時保管場所にすぎないのだが、積層された瓦の列は、「一時的な建築のファサード」になっている。瓦という汎用性の高いエレメントが並べられることで、建築に後から新しい表情が与えられる。そして瓦がそこに積まれるためには、支えとしての塀や壁があらかじめどっしりと構えられていなければならない。


写真を通して世界の風景を眺めてみても、こうした「動かない器」としての建築を前提とした「運搬と陳列」という行為が、都市や建築の秩序を形作っている様子がわかる。


例えば、分厚い石や土の壁に、深く切り込まれた開口部(窓)が穿たれ、その壁の奥行きや開口の縁には、住まい手の日用品や聖具、資材が置かれ、「窓の陳列棚」になっている。
市場に足を踏み入れると、モノを並べるためのシンプルな木製の台が床一面に並び、指定された床面積さえ守れば、商品はいくらでも垂直に積み上げられていく。陳列された商品のストックが、そのまま市場の壁面となり、空っぽの広場を複雑な内部を持つ空間へと仕上げる。




ある集落の中庭や壁沿いには、将来の補修や増改築のために準備された丸太や竹といった建材が組まれて保管されている。この集落の共同住居の外側には庇があり、土で作られた外壁を保護しながら建材のストックも守る。そしてそれが絶えず補填されることでもはや外観の形成要因を担っている。


都市の中において「運搬と陳列」という日常の行為が、塵も積もれば山となり、いつしか建築の一部になり、都市の風景になっていく。
建築がなくとも、モノが一定の秩序を持って並べられるだけで、そこにはある種の空間が生まれるのかもしれない。

もう少し事例を紹介する。赤いはしごが並べられている南米の墓地だ。それぞれの墓は集合住宅のように縦に積まれるため、その手入れ、お供えには梯子が必要になる。その結果、同時にたくさんの人が来場してもいいようにたくさんの梯子が準備され、それらを木や休憩所の柱に括りつけていくと、徐々に風景が後から完成してくる。むしろ建築よりこういった行為の調度品がこの場所の空気を決定しているとも言える。
運搬と陳列を建築の一部として数えるならば、モノが増え、積み上がってしまうことに耐えうる建築の設計を考えなければいけない。その時必要になる空間の強度というのは、大きな屋根やプログラムによって獲得できるものではない。誰が何を置いても(追加しても)、悪くは見えない。そういう建築の在り方がその場その場で発見されることが「使われる空間」としての豊かさになっていくかもしれない。
収集家のための収集家
「ストック」「陳列」「自分より大きな動く部品」という思考を、実際の住宅改修において試みたプロジェクトが、以前私が設計を手がけた京町家の改修「収集家のための収集家(いえ)」である。

趣味が昂じて生活の大半を占めてしまう人がいる。傍から見てその趣味や収集行為が生活の中心になっているとき、周囲はその人を敬意と親しみを込めて「〇〇家(か)」と呼ぶ。このプロジェクトの施主は、日本の古い引き戸、襖、屏風、欄間といったバラバラな年代・寸法の古建具のコレクター(収集家)であった。依頼の内容は、自身が収集してきたコレクションを収蔵しきれないため、購入した京町家に可能な限り組み込み、日常的に使いながら生活したいというものであった。
しかし、彼女のコレクションは数的にも意匠的にも、一軒の町家に収めるには過剰でまとまりを欠いていた。これらをどうやってひとつの建築の中に「収集」し、破綻させずに空間としてまとめ上げるのか。冒頭の言葉に当てはめるなら、施主はそのまま「収集家(か)」であり、建築家に求められたのは、それらの古建具を受け止めるための「収集_家(いえ)」を設計することであった。
施主と建築の間の「モノ」
私自身の少ない経験の中から施主と設計者の関係性について大層な持論を述べるのは恐縮であるが、通常の住宅設計において、施主と設計者の間には常に「どのような空間にしたいかという要望」が存在する。「明るいリビングがほしい」「収納を多くしたい」「落ち着いた和室がほしい」といった要望に対し、設計者はそれをいかに読み解き、空間として回答するかという手腕が問われる。
ただ、それでは「空間に関する施主のアイデア」と「空間に関する設計士の回答」という関係性になり、地続きの思考で飛躍がない。思いついたモノがおよそ正確に表現できてしまう時代だからこそ、思いもよらなかった空間が生まれるという建築の喜びを目指すには少し工夫がいる。それを「偶然」や「予定調和的でない」というような不確定な話題に向けて逃げてしまっては専門家ではなくなってしまうので、もう少し計画的な思考を持っていたいという気持ちがある。
施主と設計者という二者の想像の範疇で建築ができてしまわないように、ほんの少しだけ遠くの、予想できなかった建築に手を伸ばす方法として、私は「物を介した設計」を考えてみた。
今回「収集家のための収集家(いえ)」で試みたような「物を介した設計」では、施主から設計者に渡されるのは、あくまでも彼らの「所有物」であり「要望」ではない。設計者は「その並べ方としての結果、建築を提案する」ということになる。部屋数ではなく収めるべき建具の数、理想的な広さの代わりに大きな壁がないと飾れない屏風、という具合に、設計者は施主の所有物との絶え間ない対話を行う。そこには人間らしい生活のための寸法感覚が抜け落ちてしまうような隙さえ生まれる。
ここで集められた古建具は、「絵のようにかけられて建築のように動く」エレメントとして立ち現れてきた。
建具は、壁に飾られる絵画のように独自の表情や美しさを持ちながらも、単なる鑑賞物にとどまらず、建築の柱や鴨居という枠組み(フレーム)の中で滑動し、空間を区切り、光を遮り、居住環境を変容させる。自らの身体よりも大きな建具を、住まい手が自らの手で「よいしょ」と滑らせるとき、その人の身体は建具という大きな部品を介して、建築のスケールへと拡張される。
そうしてなんとか収めた建具の動きを、建築として施主に引き渡した。





その後実際に起こったことを思い返してみると、施主はこの建築に人を呼び、空間ではなく自分の収集品を自慢していた。建築と設計者はこうして裏方に徹する。建具を自慢している施主を見て思うのは、自分が気に入った物品が心地よさそうに配置された家というのは、快適なのだろう。
もちろん今回は収集品が「建具」であることが少し特殊なのだと思う。施主のコレクションが建築の一部になるという条件で始まる今回の物件は「物を介した建築設計」であり、収集家と建築家の共同とも言える。自由に動く家具に属さず、まったく動かない建築にも属さない、「動くが枠から飛び出さないエレメント」が収集される家を考えることが、施主と設計者の関係という大きなテーマの話題のひとつになる。
そして、実はどんな建築の設計も大きく括れば「収集家と建築家の共同」であると結論付けても問題ないのかもしれない。
私たちは誰しも、生きている限り何かしらのモノを所有し、集め、ストックし、並べて暮らしている。それは古建具のような特殊なコレクションに限らず、本や洋服、食器、日用品、あるいは薪や瓦のような生活の資材に至るまで、日常的な調度品は様々だ。物を持つことが建築を持つことに繋がる。その繋ぎ手としての建築家は、単に綺麗な空間の図面を描く人物である以上に、モノの観察と即物的な建築思考に長けた専門家として名乗ってもいいのかもしれない。
我々の設計する動かない器があるからこそ、人間はその中で身体を使い、自分より大きな建具や家具を動かし、モノを積み上げ、陳列し、自らの身体のスケールを何度でも拡張することができる。ドアを動かす一瞬、大きな本棚を引き出す一瞬、あるいは大量の建具を運び出してブルーシートに並べるばかばかしくも切実な作業の瞬間? その一瞬一瞬において、私たちの身体は建築という装置と溶け合い、「自分の身体でも結構やれるんじゃないか」と勘違いすることができる。
整然とした安全なシステムに守られ、身体を余らせたまま不完全な眠りにつくのではなく、自分の身体を使い切り、自分より大きなものを引き受け、夜までに適切に疲れること。不動の器としての建築は、私たちが自分より大きな世界と、手触りのある関係を結び直すための足場である。



