瓦の建築考

和蘭の瓦(3) デ・クラークの目指した構築と装飾の表現(藤田悠/東京工業大学環境・社会理工学院建築学系博士後期課程)

Fujita

新時代の芸術運動

「表現主義と近代ロマン主義、ファンタジーを宿した建築芸術における最も新しい運動」

Karel Petrus Cornelis de Bazel: Dr. H.P. Berlage en Zijn Werk, W.L. & J. Brusse, 1916

1916年、オランダの建築家ヤン・グラタマ(Jan Gratama; 1877-1947)は、ヘンドリク・ペトルス・ベルラーヘ(Hendrik Petrus Berlage; 1856-1934)の教えの上に新時代の芸術を築こうとする若き建築家らの創作を指してこう評した(文献1)。オランダ近代建築の父の生誕60年の節目に発行されたモノグラフに掲載されたこの寄稿文が、「アムステルダム派(蘭: Amsterdamse School)」という呼称の初出となる。続く文章でグラタマが名前を挙げたのは3人、ジョアン・ファン・デル・メイ(Joan van der Mey; 1878-1949)、ピート・クラマー(Piet Lodewijk Kramer; 1881-1961)、そしてミシェル・デ・クラーク(Michel de Klerk; 1884-1923)であった。

3人は他の建築家らや他領域の芸術家らとともに、芸術家個人の発想に重きをおく共同芸術を目指した。彼ら自身が「派閥」を名乗ることはなかったが、雑誌Wendingen(1918-1933)を媒体に発表された言論や作品には少なくともひとつの「運動」があった。同時代に興ったデ・スティル(蘭: De Stijl)に比してアムステルダム派は歴史の傍流のように語られがちである。しかし、芸術家らの作品は今なお新鮮な発見に充ちている。

建築におけるその最高到達点とも云われる作品がアムステルダムにある。

蒸気機関工場の住宅組合アイヘン・ハールト(蘭: Eigen Haard)のために建てられた集合住宅、通称ヘット・シップ(蘭:Het Schip)。設計者はミシェル・デ・クラークである。

1921年に102の住戸と郵便局、小さな集会所のコンプレックスとして建てられたこの建物は、スパールンダンメルプラントゾーン(蘭: Spaarndanmmerplantsoen)と呼ばれる地区の第三期開発計画として建てられた。通りを一つ挟んだ第一期計画(1914)と第二期計画(1918)もデ・クラークの手によるものであり、最後に残っていた変形敷地での計画が建築家の代名詞となった。

第二期計画の建物越しにヘット・シップを望む(筆者撮影)

異なる要素からなる全体

ミシェル・デ・クラークは、1884年アムステルダム中心部のユダヤ人の多く住む地区に生まれ、14歳にしてドラフトマンとしてエドゥアルド・カイパルス(Eduard Cuypers; 1859-1927)の事務所で働き始めた。カイパルスは自ら発行していた雑誌の中でオランダの民俗文化や他国の装飾芸術について論じ、事務所の所員にも様々な工芸に触れさせた。市立美術館の向かいに位置する彼の事務所には多くの建築家や芸術家が訪れており、デ・クラークがファン・デル・メイやクラマーと出会ったのもここであった。

1911年の独立後しばらくしてデベロッパーから依頼されたスパールンダンメルプラントゾーンの第一期計画が彼のキャリアの転機となる。全体を色彩の異なる煉瓦や平瓦で仕上げ装飾を配した集合住宅について、1914年の竣工後、ベルギーの建築家・批評家ハイブ・オウスト(Huib Hoste; 1881-1957)は「他の建築家らが異なる単位を組み合わせにまとまりを与えようとするのに対して、デ・クラークは異なる要素からなる実体としてブロック自体を扱っている」と賞賛した。続く第二期計画でもデ・クラークは敷地前面の広場まで一体に扱ったような建物のあり方を示し、第三期計画の依頼を得ることになる。

全体性の問題は例えばベルラーヘの作品を語るのにも有効なテーマだといえる。しかし、前稿で述べたようにベルラーヘが建物全体の印象を重視し細部や装飾を全体に従属するものと捉えたのに対し、デ・クラークは造形的な細部や装飾の集合そのものとして全体を築いた。異なる形態は色彩や素材により連続しており、様々な装飾のモチーフも建物の機能やプロジェクトの条件との諧謔的な関連のもとに選ばれている。

ベルラーへ設計アムステルダム証券取引所(筆者撮影)

発想を具現化する素材

第三期の建物は3つの通りに囲まれており、平面はおおよそ背の高い台形のようになっている。建物はオレンジと黒の煉瓦や瓦、砂岩のようなクリーム色の窓枠、緑のドアなどの要素からなり、デ・クラークはそれらの組み合わせで4辺それぞれに特徴的な立面をつくり上げた。

アムステルダム市街側から建物を目指しザーン通り(蘭: Zaanstraat)を進んでくると最初に目に入るのが、台形の上底に位置する旧郵便局のヴォリュームである。今にも前進しそうな形態、上部に突き出た煙突などを見れば、船を意味する通称の由来がよくわかる。しかし、すぐさま視線は建築の様々な部分に引きつけられ、どのような建物なのか把握するまでにしばし時間を取られることになる。

船首にあたる部分の上部は黒い瓦の壁が立ち上がり、そこから続く切妻屋根がその先でマンサード屋根に繋がっている。向かって左手、ザーン通り側では2階部分の窓が不思議にせり出し、そのふくらみの下部まで律儀に瓦が吊り下げられるように葺かれている。外壁の角には煉瓦積みからそのまま彫り出された鳥の群れ、さらに郵便局のエントランスと思しき円筒上部に巻き付いたフリルのような装飾もよく見れば波型の瓦でできている。

郵便局のヴォリューム(筆者撮影)

ザーン通りを進んだ先には理性的な直方体のヴォリュームが立っている。ここでは住戸のドアと窓とが一定のリズムで並び、1階部分の暗褐色の壁に平行して、クリーム色の楣と黒い瓦のラインが走る。エントランスの上部には蝶の姿を模した八の字形の窓が配され、それに合わせて2階部分の瓦のラインが跳ねることで立面に動きを生んでいる。

ザーン通り側立面(筆者撮影)

ヘムブルク通り(蘭: Hemburgstraat)側には通りを一歩引き込むような平面形状の低いヴォリュームがあり、中央にはこの街区のシンボルともいうべき塔がそびえ立つ。ここでは、暗褐色の煉瓦壁による1階部分を除いて極めて造形的なヴォリューム全体がオレンジの瓦で覆われている。基本的にはHolle Panと呼ばれる典型的な桟瓦が使われているが、棟や谷部分には様々な形状の役物があてられている。塔の両肩にあたるギャンブレル屋根も実はわずかにむくっており、曲率に合わせて瓦の長さがわずかに変化している。(これは、当時の瓦が型押しで成形するのではなく押し出した帯を切り分けてつくられていたために可能であったらしい。)

ヘムブルク通り沿いの塔(筆者撮影)

最後にオーストザーン通り(蘭: Oostzaanstraat)側では、他の3面と異なり暗褐色の壁が2階部分までのびている。これは1915年集合住宅に先んじて竣工していた小学校の建物の外壁であるが、色彩と素材の連続や、オレンジの有機的な壁や開口が新旧の境目を一部跨ぐようなヴォリュームの操作により、言われなければ増築だとは気が付かないほど、別々に建てられた二つの建物が見事に一体化している。

オーストザーン通り側立面(筆者撮影)

ここに挙げたものに限らず、ヘット・シップでは部分を観察し始めればきりがないほどに多種多様で遊び心に溢れた造形的な表現をみることができる。そうでありながらオウストが評したように不思議な全体性が感じられるのは、デ・クラークが全体の素材や色彩を適切に選びそれを自在に操ることに長けていたからだろう。冒頭に挙げた文章の中で、グラタマは若い建築家らの欲求についてベルラーへとの対比を念頭に置いてこうも記している。

「彼らは更なる自由を欲し、自身の力と個性の内に構築と装飾を表現することを求めている。」

デ・クラークの創作において、瓦や煉瓦は、それぞれ時に全く非慣習的な形態や使われ方をともなって建築家個人の内面にある「ファンタジー」を具現化する材料のひとつとなっていた。

(蛇足ながら、これはデ・クラークと同じユダヤ系の建築家ルイス・カーンが「煉瓦はアーチになりたがっている」として素材の性質から建築の形態を導き出したことと好対照をなすように思われる。)

ザーン通り側立面(筆者撮影)

アムステルダム派の波のあと

1916年、アムステルダム建築家協会の選挙においてジョアン・ファン・デル・メイとミシェル・デ・クラークは若手理事に就任した。ベルラーへも依然名誉会長の座にあったが、新たな体制のもとで彼らは「建築の美的側面に奉仕する」との新たな方針を掲げる。オランダ建築界に新たな建築を希求する道を切り拓いたベルラーへの功績に敬意を払いつつ、その作品について芸術的な領域への未達を指摘していた彼らにとりこれは大きな一歩であった。

しかしヘット・シップの竣工から2年後の1923年、デ・クラークは39歳の若さでこの世を去った。さらにその後の恐慌、ジャズや映画など共同芸術となりうる他の表現形式の台頭などを背景に芸術としての建築に対する期待は小さくなり、残念ながらアムステルダム派の建築は勢いを失っていく。代わって建築には理性的なあり方が主に期待されるようになり、建築史の主要登場人物の座はベルラーへやデ・スティルに与えられた。

それでも、およそ10年前後の全盛期の中でアムステルダム派が試みた表現の数々は、オランダ国内に限らず多くの建築家らを刺激した。これは日本の建築家らに対しても例外ではない。次稿では、同時代の日本人建築家による作品を訪ね、アムステルダム派の波のあとをなぞってみたい。

参考文献

  1. Karel Petrus Cornelis de Bazel: Dr. H.P. Berlage en Zijn Werk, W.L. & J. Brusse, 1916
  2. Petra van Diemen, Niko Koers: A WORK OF ART IN BRICK, Museum Het Schip, 2018
  3. ルイス・カーン(著), 前田忠直(訳): ルイス・カーン建築論集, 鹿島出版社, 2008.4
寄稿者
藤田 悠
藤田 悠
東京工業大学環境・社会理工学院建築学系博士後期課程
専門は建築計画。2017年デルフト工科大学派遣交換留学。2020年に論文『老人ホーム・保育所に対する社会意識の変遷と課題』で日本建築学会奨励賞。同年より東京工業大学環境・社会理工学院建築学系博士後期課程に在籍(那須聖研究室)。2021年日本学術振興会特別研究員(DC2)。目下、保育施設に関する博士論文を執筆中。
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