瓦の建築考

季節の器 ジャンウーゴ・ポレゼッロの建築をめぐる(片桐 悠自/組積研スタジオ、東京都市大学)

片桐悠自

1958年、ヴェネツィア建築大学を卒業したひとりの男がいた。ジャンウーゴ・ポレゼッロ。建築家アルド・ロッシと出会い、1960年代初頭にSDA(Studio di Architettura、建築研究所)を立ち上げることになる人物である。

ロッシは、ミラノ工科大学を1959年に卒業したが、お世辞にも“ブリリアントな成績”だったとは言えなかった。自伝で述懐された「ミラノ工科大学で最も不出来な学生」1は、いささか韜晦(とうかい)の感はあるが、学生時代の成績を調べたベアトリーチェ・ランパリエッロ(Beatrice Lampariello)の研究によると、少なくとも、建築設計や物理(力学)の成績が良かったとは言えなさそうである2

他方、ポレゼッロは、ヴェネツィア建築大学で、ジュゼッペ・サモーナ(サモナ)、イニャーツィオ・ガルデッラの薫陶を受けた、モダニズムの工学教育の高度な習得から、独自の幾何学的手法を編み出しつつあった。本稿の終わりで扱う、大学卒業年の「フェスタ・デ・ルニタの庭園計画」にその萌芽がみてとれる。

この二人はともにカトリックの高校教育を受け、「触れるように」3知識と戯れ、建築が人文学的素養と不可分であることを共有していた。ともにスターリン批判以降のイタリア共産党に属しながら、スターリニズム建築を愛好していた。「円柱論争(円柱に台座をつけるか否か)」で揉めたことで協働を解消するが、1970年代以降も、両者は互いを意識していたようだ4

「ビビオーネの中央市場」(1975-81、以下「ビビオーネの市場」)は、ヴェネツィアの東方約50kmの湾岸地域・ビビオーネにあり、タリアメント川の下流に位置する砂州である。ポレゼッロの1970年代の建築のなかで、大規模に実現されたものである。

「ビビオーネの中央市場」西面、筆者撮影、2025年3月

屋根は、矩勾配のポリカーボネート製と思われるバタフライ屋根の対が反復され、その屋根の下に、半外部のアーケードが設置されている。もともとは、中央市場として計画されたようであるが、2025年3月に視察した際は、西側にスーパーマーケットがあり、ポレゼッロの手掛けた建物は物流拠点の事務所が並ぶ“市場”となっている。

訪れたのは、冬の寒さの残る春の小雨日和であり、北イタリアの風と霧が建物中に入り込んでいた。3,75mの間隔であり5、幅60cmの正八角形断面をもつ柱が林立するグリッドで構成された内部は、ほとんど吹きさらしであり、ほぼ外部となっている。

夏の晴れた日なら、海水浴を楽しむ家族連れや小鳥の声、日差しを感じることだろう。

「ビビオーネの中央市場」屋根と柱の接合部、筆者撮影、2025年3月
「ビビオーネの中央市場」中央のアトリウム、筆者撮影、2025年3月
「ビビオーネの中央市場」南側2階回廊、筆者撮影、2025年3月
「ビビオーネの中央市場」南面、筆者撮影、2025年3月
「ビビオーネの中央市場」の36.5cmの柱間スパン、筆者撮影、2025年3月
「ビビオーネの中央市場」東側中庭、筆者撮影、2025年3月

ここでみてとれるのは、中央市場から物流拠点へのプログラムの変容をおおらかに受け入れる、仮設的(テンタティヴ)な幾何学形式だ。

なお、この平面構成は「スキオのラネロッシ計画」6(1980)においても反復されている7。ポレゼッロは、ロッシのおける形態の反復を「詩人としての能力」8と論じたが、彼自身の計画の反復もまた、詩的な反復の操作であるのだろう。それは、彼の私淑するジャン=ニコラ=ルイ=デュランのカタログ化の“技術”であると同時に、都市の変化を許容する「函(funzione、役割)」である9。その「函」は、「機能」や「プログラム」といった内容の強制を超えて、都市の景観を形作る使命を受け止め、一旦仮止めされた幾何学形式なのだ。

厳密な幾何学を、軽やかに担う、季節の器。

どこか篠原一男の住宅建築と通じるような、厳格な比例の操作は、都市環境(アンビエンテ)の空気とともに体験される。その建築の幾何学は、フリウリ地方の霧と風、湿度が吹き抜ける都市環境に由来するのだろう。

ポレゼッロの地元、フリウリ=ヴェネツィア=ジュリア州の主要都市のひとつ、ウーディネには、1990年代初めに着工した大規模な公園計画「アルディト・デージオ公園(ピープ北西公園)」がある。ポレゼッロの事務所のあったフリウリ地方の主要都市・ウーディネの北西にある公園計画だ。

ここでは、彼による「選びぬかれ、反復される形態要素」である正三角形平面が、壁と柱からなる吹きさらしのパビリオンとして実現している。

「ウーディネのピープ北西公園」の正三角形のパビリオン・北側、筆者撮影、2025年3月
「ウーディネのピープ北西公園(アルディト・デージオ公園/ポレゼッロ公園)」の配置図とアクソノメトリック図 図版出典:『図6:建築と都市の軸・対称』(図研究会、東海教育研究所、2025:作成:柏崎健汰+牧野航太+片桐悠自), pp. 72-73
「ウーディネのピープ北西公園」の鉄塔へ向かう街路樹/正三角形パビリオンの角から、筆者撮影、2023年5月
「ウーディネのピープ北西公園」・北部のスケートボード練習場、筆者撮影、2025年3月

一辺30m、高さ6mの三角柱という、都市に過剰な主張をする幾何学は、半外部として建設された際、都市環境そのものとして建築それ自体を意識的に見ない限り、自らの存在感を消している。

壁はグラフィティに溢れている。ポレゼッロによる“環境計画”というべきものだろうか。木々を、公園を訪れる人々を、鳥を、霧を、ゆるやかに、おおらかに受け入れる。

「ウーディネのピープ北西公園」の正三角形のパビリオン・北側、筆者撮影、2025年3月

筆者は、この公園を2023年5月、同年11月、2025年3月と、これまで3回訪れている。

11月に訪れた際には、この公園を長く使用しているという「アッカ(H)」氏に会った。

彼によると、行政が渋ったものの、建築家はグラフィティを許容するよう設計し、最終的にストリートアートを行うことが市民に開放されたのだという。

「いつでも歓迎するよ。ようこそ、俺達の公園へ。」

流暢な英語を話す、ストリートカルチャーを90年代から突き進んでいるようなナイスミドル、アッカ氏は、心からこの公園を愛しているようにみえた。実際、縦横無尽に描かれたグラフィティと同時に、この公園で感じるのは、その治安の良さである。

市民が自由に落書きを楽しめる壁。分断の象徴とは異なる、汚され、なおかつ愛される「閾(ソリア)」。

おそらく、内部に鉄筋が入ったコンクリートブロックの目地は、グラフィティによって滑らかに仕上げられ、人間の生きた季節が塗り重ねられる。公園の自由な、オブジェクトのもつ至高な主体が、生き生きと表象されるのだ。

「ウーディネのピープ北西公園」のスケートボード場、筆者撮影、2025年3月

ビビオーネの市場と似た、ポリカーボネート製の矩勾配の屋根は、2023年11月に訪れた際は穴が開けられていたものの、2025年3月には新調されていた。いつも変わらず若者や親子連れが多く滞在し、スケートボードやキックボード、バスケットボール、セグウェイを謳歌しているのが印象的であった。

「ウーディネのピープ北西公園」のスケートボード場、柏﨑健汰撮影、2023年10月

風、鳥、人々、そしてグラフィティすらも、リテラルに受け止める建築。先のアッカ氏によれば、設計者であるポレゼッロ自身も、グラフィティが描かれて使用されることを望んでいたという。管理側の市(コムーネ)はグラフィティを禁止することも考えたようだが、公園使用者側の要望により、公園整備から30年以上経った現在も、自由に描ける壁である。

ポレゼッロ「ウーディネのピープ北西公園」のコンクリートの敷居、筆者撮影、2025年3月

街路樹によって縁取られた、閾(ソリア)

ストリートアートも、鳥のさえずりも、雨も、風も人も自動車も、スケボーを練習する親子も、すべてを巻き込んでいく。

敷地境界となる歩道と公園の境界はゆるやかに、20cmほどのコンクリートの敷居で囲われている。大人も子どもも、ここが公園だと認識できると同時に、だれもが自由にまたぐことができる、そんな「閾(ソリア)」となっている。

公園の外、道路を挟んだ向かいの緑地帯にはパーゴラが配され、植物とともにゆるやかに区画をつくるように交通計画が検討された。

その活動の初期の頃から、ポレゼッロは、庭-都市と環境としてとらえた、幾何学的手法について意識的であった。

たとえば、ヴェネツィア建築大学卒業前後の「フェスタ・デ・ルニタの庭園計画(会場計画)」(1958)では、環境と幾何学を重ね合せた独自の手法がみてとれる。プログラムとしては、イタリア共産党機関誌『ウニタ(L’Unità)』の名を関した政治集会場であり、細長い敷地の西側に設けた刈り込んだ三角形の植栽に、2つの矩形のポケットを開けた、屋外スペースを配置する計画となっている10

1977年、モデナでの「フェスタ・デ・ルニタ」

ポレゼッロの出身であるウーディネ県カスティオンス・ディ・ストラーダに計画されるも実現されることはなく、しかしその後のSDAの活動を特徴づけるものとなった。ここでは正方形を基準とした幾何学的な構成が用いられていた。

「フェスタ・デ・ルニタの計画」南側、Google ストリートビューをもとに筆者作成

「フェスタ・デ・ルニタの計画」、IUAV Archivio Progetti所蔵図面をもとに筆者作成

建築の幾何学的構成に加えて、幾何学的平面をもつ植栽によって外部空間を計画するなど、人工物と自然との関係性を検討していた。直角三角形平面に刈り込まれた西側一辺に平行に、一辺30mの正方形3つを基準に、薄いコンクリートの壁、幅6mのバスケットコートへのゲートを兼ねたパビリオン、屋外スタンド、プール、更衣室をストライプ状に配置される。間瀬論文で指摘される2つのモデュールのうち、3mのモデュールがみてとれる。その意味で、ポレゼッロは20代後半ですでに、独自の寸法体系を自らに課していたと言えるだろう。

幾何学が、周辺環境を軽やかに受け入れるような「季節の器」となる。

アルド・ロッシとともに、ポレゼッロもそんな建築的事物をめざしていたのかもしれない。

ポレゼッロ「フェスタ・デ・ルニタの計画」西側アイソメトリック図、筆者作成

【参考文献・出典】

  1. 1アルド・ロッシ『アルド・ロッシ自伝』三宅理一 訳, 鹿島出版会, 1984, p.89. ↩︎

  2. 2Lampariello,Beatrice, Aldo Rossi e le forme del razionalismo esaltato: Dai progetti scolastici alla «città analoga», 1950-1973, Quodlibet Habitat, 2017, pp.26, 32 ↩︎

  3. 3ポレゼッロは以下のようにロッシとの教育的共通点を振り返る。「常に感動し、質感のなかでー触れるようにー思考すること、頭の中での知識の問いかけや頭の中での批判的訓練を行う学びである。哲学が文学的素養と不可分であることを精神的に共有していた」:POLESELLO, Gianugo,”Ab initio, indagatio,initiorum. Ricordi e confessioni”, POSOCCO, Pisana., RADICCHIO, Gemma, POLESELLO, Gianugo (a cura),  «Care architetture»:Scritti su Aldo Rossi, Turin:Umberto Allemandi & C., 2003, p20/  ↩︎

  4. 4以下も参照。片桐悠自,「ジャンウーゴ・ポレゼッロの設計思想とアルド・ロッシとの“円柱論争”:「ポレゼッロ-ロッシ」の青春時代の協働とテンデンツァ運動への理論的寄与」, 『日本建築学会計画系論文集』, 第85巻, 第777号,2020,  p.2439 ↩︎

  5. 5ポレゼッロの「ラジカルな合理主義的手法」は、間瀬正彦の博士論文(1994)により、3mと3,75mの2つのモデュールが用いられていることが明らかになっている。 間瀬 正彦:建築設計計画過程の体系化に関する研究-ジャンウーゴ・ポレゼッロの設計方法の分析を通して, 東北大学大学院工学系研究科博士論文, 1994. なお、当該論文は、国会図書館デジタルコレクションにログインすれば、個人のデバイスで閲覧可能である。https://dl.ndl.go.jp/pid/3074556(最終アクセス2025年3月27日) ↩︎

  6. 6以下も参照。https://cataloghidedicati.iuav.it/it/ricerca/dettaglio/A_255174/(最終アクセス2025年5月13日) ↩︎

  7. 7以下の2つの図面を見比べると、同一であることがわかる。GIANUGO POLESELLO Progetti di architettura, Rome: Edizioni Kappa,1983, p.85 (ARES LANEROSSI A SCHIO); Gianugo Polesello: Architettetura 1960-1992 (Documenti di Architettura), Milan: Electa,1992, p.84 (MERCATO A BIBIONE., S. MICHELE AL TAGLIAMENTO, 1975-81)
    ↩︎

  8. 8以下も参照。https://madoken.jp/series/14927/(最終アクセス2025年5月13日) ↩︎

  9. 9POLESELLO, Gianugo, MERCATO A BIBIONE., S. MICHELE AL TAGLIAMENTO, 1975-81”, Gianugo Polesello: Architettetura 1960-1992 (Documenti di Architettura), Milan: Electa,1992, pp.80-81「大型の都市機能のシステムに基づいて新たにすることは、こうした還元主義的間違いをただすためではなく、必要な都市変容の類型(ティポ)を導出するために重要である。(中略)この類型の都市形態[morfologie]が表象するのは、小都市(マイクロシティ)だ。それは。私によって選びぬかれた反復される形態要素の群によって判別可能であると同時に、要素群によって構成されると同時に、それらがモニュメントであるならば、単一のモニュメントとしても判別可能である。私はここでジャン=ニコラ=ルイ・デュランによって導かれた設計の技術、「ある建造物の手段となるような建造物の建設」のようなものを指している。今日、この技術によってなされる使用としての、記憶の喚起は有用であると信じたい。私が語っているのは都市領域[territorio urbano]についてであり、とりわけ、現代都市の拡張とその決定不可能性の特徴づけを指している。」(筆者訳) ↩︎

  10. 10片桐悠自『アルド・ロッシ 記憶の幾何学』、鹿島出版会、2024, pp.119-121も参照。なお、この計画の詳細についてはIUAVの建築設計資料アーカイブArchivio Progetti所蔵の図面から、モデリング/レンダリングを行った拙論も参照; 片桐 悠自「ジャンウーゴ・ポレゼッロ「フェスタ・デ・ルニタの庭園計画」の建築的モチーフについて」, 『日本図学会 大会学術講演論文集』, 2021,  pp.65-70 ↩︎
寄稿者
片桐 悠自
片桐 悠自
組積研スタジオ/東京都市大学講師
建築家・建築理論家。組積研スタジオ運営/東大LEGO部、岸田省吾+岸田建築設計事務所、東京理科大学理工学部建築学科(岩岡竜夫研究室)を経て、現在東京都市大学建築学科講師。単著に『アルド・ロッシ 記憶の幾何学』(鹿島出版会、2024)、図研究会としての共著に『図6 建築と都市の軸・対称』(東海教育研究所、2025)翻訳監修に『メランコリーと建築 アルド・ロッシ』(フリックスタジオ、2023)
記事URLをコピーしました