瓦の建築考

ヒタヒタの定位(岡航世/京都工芸繊維大学修士課程三年)

岡航世

「足首まで浸かる水位です」(豪雨のニュースキャスター)

2025年9月、インドのアウランガバードに滞在していた時のこと。嵐に遭い、乗っていたバスから降ろされたため、仕方なく歩いてなんとかホテルに着いた。ロビーでホテルのスタッフとともにニュースを見ていたとき、キャスターの身振りと、横にいたインド人との会話から、「足首まで浸かる水位」という表現が共通の感覚であることが嬉しかった。

自分の国を出れば誰しもが「部外者」になる。その条件下において、不謹慎ではあるかもしれないが、皆で一斉に同じ災難に遭うということは、その土地やコミュニティに仲間入りできたような感覚をもたらす。イタリアのド田舎で電車が急に止まって途方に暮れた時も、中国の道路が落石で埋まり、居合わせた者たちで岩を移動させて道を作った時もそうだった。その作業や時間のあいだ、自分は部外者ではないという実感があり、旅行者とは違う感覚になる。

そのようないくつかの記憶の中でも、インドの洪水を特別な例として思い出すのは、あの状況が何よりも「空間」の話だったからだ。洪水という災難においては、その場にいる全員が一律に同じ水かさに浸される。重力によって決定されたルールに、等しく身体を預けている状態。そこに存在していたのは、平面上の距離や国籍を超えて、一律の水位によって全員の身体が繋ぎ止められているという状態だった。

想定される等高面

「一律の水平面に身体が浸される」という現象は、災難だけに留まらず、日常の多様な風景の中にも現れている。

ネパールとインドの国境付近の村に滞在していた時、村人も私も、いわば「稲の海」に潜っているような状態の中にいた。それは季節の移り変わりとともに現れ、徐々に身長を伸ばす緑や黄金色の水平面。身をかがめて米に潜ることがとても自然な身体の反応に思えて、そこから今度はまた立ち上がって米の海から顔を出すことも、まったく自然な動きをしていると思えた。そんな遊びをしていたころから、自分の身体が空間によって畳まれる(潜るために小さくなったり立ち上がったりする)ということが心地良いと思うようになった。

街路樹が一律の高さで白く塗られている国がある。どれも地面から1500mmほどの高さまで塗られている。最も一般的な説明としては、防虫や動物にかじられないためという機能的な理由があるそうだ。歩いている間、子供たちはみな、この高さ1500mmの白い帯の中にすっぽりと潜っているし、大人が歩いているときにはこの水平面から顔が出ている。ベンチや椅子に腰掛けた瞬間に、大人も白い帯の中へと潜ることになる。

チベットのラサに滞在していた頃、折良くピクニック日和の祝日に巡り合った。公園には無数のレジャーシートが敷かれ、ピクニックを楽しむ家族連れや、キャンピングチェアに深く腰掛けて新聞を読む紳士がいたが、彼らは全員一律に、その白い帯の中に潜っていることで、同じ場を共有しているように見えた。そしてその帯に潜るという起居がこの場所に合っているように思えた。

インドの寺院で目にした列柱群も、私たちの身体をちょうど頭の高さで緩い緊張感を走らせてくれる。「私はもしかすると頭が高いのではないか?」と思い、柱脚が作り出す低い水平面のもとでは、自然と膝をつき、身体を低くして祈る姿こそが、最もこの空間と調和し、心地良い状態だと気づいた。空間を通してふさわしい起居が見つかることで「身体が上手に畳まれる」ということを、異文化の中だからこそ強く感じた。

時間の等高面

エローラの石窟寺院では、少し違う種類の線を見た。石窟寺院とは、外から運んできた素材を組み上げて作るものではなく、広大な大地の岩盤を直接削り進めることによって空間を獲得していく。したがって、そこに現れる柱、床、壁、天井は、すべて元々は同じひとつの大地であり、どれほど精緻にエッジを切り出そうとも、それらを素材として切り離すことはできない。柱は削り出された瞬間から、ずっと床や天井と接続されている。 

この写真に見られる柱には、まず意匠上の線がある。柱脚とそれより上の部分とで、削り方が変えられている境目だ。ところが、その線とは別に、もうひとつ線が隠れている。大地が積み重ねてきた層の境目、つまり地層の線だ。白っぽい大地の帯が床から続き、そこから600mmほど黒い大地が帯状に挟まり、再びもう少し白い大地に戻る。高さによって、物質としての材料そのものが変化しているのだ。

面白いのは、この二つの線の高さが、微妙にずれていることだった。人間が意匠として引いた線(柱脚の境目)と、大地が時間をかけて引いた線(地層の境目)がずれていて、どちらの線を「本当の」区切りとして信じればいいのかわからなくなる。こうして認識が揺れることは、建築における「見かけ」の機能と重なると思った。

机の定位 表面に可能なこと

日本に帰国すると所属する研究室で机を設計施工するプロジェクトが動いていた。自分以外のメンバー 間で大枠の話が進んでいたので、途中から参加した自分が関わることができる「表面(仕上げ)の段階で可能なこと」を考えた。

既に進行していた机の案は「収納付きの天板が浮かび上がって、壁に挟まっている」という状態が重要であり、机の足は直接地面に着地するのではなく、両脇の壁に突っ張る形で荷重を支えるという構造が要だった。この構造の案だけで机は床に属さなくなる。そういったイメージを塗装という表面の次元が一役引き受けられたらと思った。そこから机の足の一部を教室の巾木と同じ高さ、同じ色で塗ることを提案した。これによって例えば部屋中に高さ10cm程度の想定面が現れたら、机は空間の中でちょっとだけ浮かぶのではないかと思った。

全部あくまで「想定」であるが、そういった世界観をひとつ自分の中に持っておきたい。

人とモノの起居を支える空間

私たちの身体も、モノも、普段は自分の手に負える範囲で自由に振る舞っているように見える。でもその振る舞いの背景に、水位や白い帯、地層や巾木のような、目には見えにくい一本の線があって、身体やモノはそこに密やかに支えられ、繋ぎ止められているのだとしたら、その状況は人とモノにとって座りが良い状態なのではないか。

まとめると

①ある空間にいる人が、想定線や想定面によって、腰や膝を丁寧に折られていく「起居の適切さ」

②ある空間に置かれたモノが、想定線や想定面によって、空間との関係の中で丁寧に位置づけられていく「モノの座りの良さ」

①と②が、どのような空間に支えられているのか。そういう判断を積み重ねた先に建築を見出したいと思う。

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寄稿者
岡 航世
岡 航世
京都工芸繊維大学修士課程三年
2002年大阪府枚方市生まれ。京都工芸繊維大学大学院修士課程在籍。KYOTO GRAPHIEをはじめとする展覧会や自主企画の会場構成、文化財活用に取り組む「門衛所プロジェクト」の主催などを通して建築設計を学ぶ。2025年春には、京都市清水五条にて「収集家(か)のための収集家(いえ)」が竣工。その後、世界一周を経て大学院に復学し、現在は修士論文・修士制作に取り組んでいる。
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