地面の建築(岡航世/京都工芸繊維大学修士課程三年西澤徹夫研究室)
涼山イ族自治州
成都からの道のり
中国には計29日間滞在した。チベットの拉薩(ラサ)を経て、最終的にネパールへ抜ける行程だった。当時はビザなしで滞在できる期間が最長1ヶ月だったので、ほぼ期限ギリギリまでいたことになる。民族の多さと歴史の分厚さに加えて、中国語で検索しないとなかなか現地の詳しい情報を得られないことが、この国をさらに魅力的にしている。現代では珍しい謎めいた空気があった。
2025年8月中旬に訪れた村は、たどり着く算段がない状態で向かった。村にいちばん近い大都市は成都で、目的の村に着く手前の、電波の届く最後の街が西昌であるということまではわかっていた。成都から西昌までは高速鉄道で5時間半。西昌に着いたのは夕方、電車から降りてすぐに標識が中国語ではないことに気づいた。
ここはチベット。行き交う人々の様相が漢民族とは違う。よく日焼けした肌、首や耳に金色のアクセサリをつけた美しい女性たちが幼い子供をおぶってバスに乗り込み、チベット民族でも漢民族でもない僕を不思議そうに見ていた。中国語で話しかけてみたがあまり通じない。
この街から先のことは何も情報がないので聞き込み調査をするしかなかった。丸一日、結局何人に声をかけて怪しまれたかわからないが、途方に暮れてつつ、売店で水を買おうとしたとき、店員さんが「外国人でしょ」と話しかけてきた。拙い中国語で話していると、どうやら目的の村の方角にある、少し手前の比較的大きな村について知っているらしい。木里(ムリ)という名前のその村は谷間にあり、1日に数回バスが出ているという。彼もその先の道についてわからないと言っていたが、それからのことは木里で聞くことにした。情報の少ない国では実空間での距離と情報の密度が一致している実感があって面白い。行けばなんとかなる。
その日は西昌で宿をとって身体を休め、次の日の早朝、バス停に向かった。木里へのバスは朝10:00発で、何時に着くのかはわからないという。引き返すわけにもいかないので乗り込んだ。
道中本当に色々なことがあったが、結局8時間か9時間ほどで木里に着いた。木里は少数民族の村へと向かうための経由地のような場所で、すれ違う人々は異なる様相をしている。斜面に立つこの大きな村は等高線を走る主要な道を階段が上下につなぐ構造になっている。霧がかかって周囲はよく見渡せないが、街の中心にある、大きめの給水塔くらいのマニ車の黄金がチラチラと見える。

早速、聞き込みを始めた。軽トラックの荷台に鹿に似た大きな動物をゴロゴロと積んだおじさん。その次は民族衣装を着た10歳前後の兄弟。チベット仏教の僧侶。バスケットボールをする青年たち。誰に聞いてもその村のことを知らないという。
宿の非常階段で休んでいると、清掃員として働く14歳の少年に出会った。行き先の写真を見せるとその村の出身だという。しかも3日前に帰省して、またこの街に仕事のために今日戻ってきたらしい。よくよく聞くと、彼の他にも同じ村出身の従業員がいるらしく、気づけば何人か集まって、僕のために色々話してくれている。
紙に書いて見せられた中国語を見ると「工作員?お嫁が欲しいの?」と書いてあった。驚いたが、そうではなく建築の勉強をしていて美しい村を見たいだけだと伝えた。少々彼らの間で話し合った後、ある電話番号を渡された。その村に翌日、物資を届ける4人乗りの車があるらしく、その運転手の番号だった。
翌朝、例の運転手に電話をしてなんとか落ち合い、物資と一緒に乗せてもらえることになった。道とも呼べない道を進み、道路を塞ぐ落石を皆で押し転がして谷底に落としながら道を作って進んだ。
合計3日間かけて、目的の村、俄亚大村(Eya Village)に到着した。

屋根あるいは地面
車から下ろされたのが谷底の川沿いだったので、見上げるように村を一望した。谷底を走る濁流で分断された地形の片側斜面に、へばりつくように広がる集落。僕と一緒に運ばれた物資を受け取りに来る村人たちが、同乗してきた謎の外国人である僕を警戒しながら、自分より大きな荷物を担いで持ち帰る。馬を連れてくる人もいた。
覚えていった中国語で寝床は幸い簡単に見つかったので、荷物を置き、さっそくその家にあった木製の椅子と自分のスケッチブックを持って出かけた。

この村の住宅の基本構成は、石積で外形を形成し、木造軸組がそれに取り付くように組み立てられるというもの。石積と木構造は連結されていないことも多く、箱状の建築の内外に線状の木造建築がすっぽり入っているような形だ。木造の架構の上に板と丸太を並べて面を作り、スレート葺き、その上から、近くの山から採れた石灰とその他諸々の「地面の材料」を混ぜて、スレートの上から塗り込めて叩いて仕上げる。端部のみスレートが飛び出しており、水切りの役割をしている。そういった理由でこの集落は上から見るとほとんど地面だから、航空写真からは見つけづらい。

斜面状の迷路のような村の通路は、雨水や生活用水が流れるための工夫がなされており、滞りなく流れるようになっている。それから、別々の住居間は屋根から屋根へと飛び移って移動できるし、屋根の下も階段で繋がっていたりする。全ての住居がつながっているわけではないが、斜面方向に(等高線に直行する方向に)3件ずつくらいで連結されている。住居間の通路だけではなく屋根の上もほとんど自由に歩けるわけだから、律儀に通路を歩かなくても斜面を下まで降りられる。


つまりここでは、通路はむしろ人のお家に玄関から正式に赴くためのひとつの選択肢でしかなく、「通路」「他人の家」といった街の構造は、人の移動を強くは拘束しない。それでいて、屋根と通路は水の流れに秩序を与え、しかも村があることが斜面の構造を補強する。これは新しい地面の建設だと思った。
そう思うと本来、世界中どこでも、私たち人間による建設はすべからく地表面の改変である。先進的な街づくりであっても、建物の高さを競い合いながら、「私たちの水はうまく流れているかしら?」と想像できる形を残しておきたいと思う。屋根の素材や雨樋、側溝は重要な街の部品で、それらがよく統合されているのがこの村だとわかった。
家族の形について
ちなみにここは400年続く一妻多夫制(一夫多妻の逆)の村。ひとり一人の妻に複数の夫がいる家庭で数日間ご飯を食べさせてもらいながら、この不思議な家族の形に触れていた。今思うとひと一つ手前の街で「お嫁がほしいの?」という不自然な質問を受けたことのの理由がわかった。家族の形に対する価値観が私たちとは全く異なるからこその冗談なのだろうと思った。
食事について
谷底なので川があり魚が食べられる。魚は干物にして食べる。肉は羊、牛、豚、鶏、なんでもある。酒は各家庭で手作り。この酒は度数が想像できないほど強い。そして気さくな家族に飲まされ続けた。とうもろこしと米も豊富で食事に物足りなさを覚えることはない。そして誰と誰が夫婦関係、親子関係なのかわからない大家族で食事をとる。食べ物を残すことは許されない。




「自由に見えて不案内ではない地面」
この村で、本当に気に入っているのは、屋上の移動が完全に自由であることではなく、通路への落下可能性(危険性)の強弱によっておおよその道筋が見えることだ。

「良い地面」は「自由に見えて不案内ではない」ということだと思った。実際現地の村人と屋根の上を歩くとき、彼らには決まった道順があるようだった。私には全く開けた空間であっても、生活の中で感じる小さな障壁が彼らの習慣を作る。数日間彼らと同行する内に私の中にも見えない秩序が入って来るのがわかった。
この経験から「何をしても良い、開けた場所であること」と「手がかりのない不安定さが排除された状態」が心地よいのだと仮説立てる時、良い場所とは、そこにいる人が「体の向き」や「経路」を見失わないよう、方向性や居座るポジションの選択可能性を緩く縛ってあげるようなものだと思った。
たったそれだけで空間は楽しいのだということを幼少期の私たちは知っていたと思う。道ゆく小学生は、どこを通って帰宅してもいいのに「この白線の上しか歩いたらあかんことにしよ。白線から落ちたらサメに食べられるで」と言って本気になって下校していた。あの頃は「仮想のサメに食べられる可能性の設計」だけで世界がキラキラ見えていた。
子供達に想像可能な「白線の外側のサメ」というユーモアの背後に、今回の集落で見た「斜面地を補強する建築群」というクリティカルな問題解決手法を忍ばせるような態度を持つことが、僕の考える良い建築だと思う。

