木ぐいとその世界(樋口貴彦/建築家、職業能力開発総合大学校 准教授)
山里の木ぐいと土
南アルプスの麓、遠山谷は、東西に日本を分ける中央構造線に沿って南北に伸び、西側の3000m級の山々が連なる赤石山脈、東側の伊那山地に挟まれた天竜川水系の中でも、極めて急峻な斜面に挟まれた谷筋です。かつて山梨県や諏訪地方を領有していた武田信玄が駿河方面に侵攻する際に通過した谷筋でもあり、今でも遠山谷沿いの長野県と静岡県の県境には、兵越峠(1168m)の名が残っています。この遠山谷沿いの谷筋には、古くから太平洋から内陸へ塩などの海産物を運ぶ古道があり、近世には、この古道を通り火伏せの神を祀る秋葉神社に詣でることが流行ったことから、この諏訪と秋葉を結ぶ街道は秋葉街道と呼ばれています。またこの街道沿いの集落には民俗芸能が今も色濃く残ることで知られ、宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』のモチーフとなった、様々な神の仮面を付けた面役が夜通し舞い回る湯だての祭り「霜月まつり」が残っており、まさに歴史と伝統文化の吹きだまった場所であると言えます。
街道沿いに残る伝統文化の独自性は、民家の形式にも現れています。天竜川沿いの段丘地帯に形成された集落に広く分布する本棟づくりの家屋はごく僅かしか見られず、代わって屋根を板材で葺き、石で抑える軒の低い民家が急斜面にへばりつくように建てられています。この遠山谷の地形の急峻さを象徴する飯田市上村下栗集落の景観は、かつて地理学者の市川健夫氏が「日本のチロル」と称したことで特に知られています。確かにヨーロッパのアルプス地方に負けない急斜面とそこに営まれた山村の暮しは、稲作を主体とする農村とは全く異なる景観を形づくっています。集落は、標高800〜1000mの尾根づたいに形成され、集落から下にサワラやヒノキの林、集落の上にカラマツやモミの林があり、集落の周辺にはクリ林が広がっています。
遠山谷は、近世より都市部への木材の供給地でした。近世初期に、領主であった遠山氏が改易*1され、天領として治められるようになったのも、豊富な木材資源を目当てとした幕府の策略であったという説もあります。天領となった遠山谷からは、ヒノキやサワラが榑木(くれき)として川に流され運ばれました。また近代には、製材業者*2が入り、パルプ用の木材伐採がさかんに行われ、下栗集落の谷下まで森林鉄道が伸びていました。戦後、国内の木材需要が減少し、昭和60年代には森林鉄道は廃線となりましたが、下栗集落の人々は、急峻な地形の中での暮しを維持するために多様な木材を活用してきました。中でもヨセと呼ばれる土留め、雑穀をかけるハザ、狭い庭を広げ冬場に吹き上げられる谷底から寒風を遮るヤライ、家屋の裏手に掛けて、崩れて来る土砂を防ぐネコビサシ、トントン葺きの屋根板。これらは周辺の山から毎年供給されるクリ材により、数年から数十年の単位で徐々に作り替えられました。そして家屋の建築材料にもクリ材が多用されています。また冬が近づくと薪が拾い集められ、霜月祭りのために家々では、雑木をフジ蔓で巻いて戸口に並べます。この木材資源を有効に活用する山の暮しが、集落景観を形づくっているのです。
下栗集落では平坦な土地がほとんどなく、家屋は斜面を均した等高線上の僅かな敷地に建てられています。また尾根上に形成された集落には沢筋からの取水も困難で、生活用の井戸は設けられていたものの稲作は行われてきませんでした。家々の周囲には、真っ直ぐ歩くのも大変な斜度の耕地が広がり、放っておくと谷側に流れ落ちてしまう耕作に適した土壌を保てるように、収穫時期を細かく分けて、数畝ずつ多様な作物が順に収穫できる配慮され、その耕地の中に土留めや、作物の支えとして、様々な種類の木ぐいが打ち込まれています。耕地で収穫された種芋や雑穀は、家屋の周囲や床下を掘り下げて設けられる室や主屋に近接して設けられるクラに保管されます。特に限られた敷地に建てられる家屋の中でクラの多くは、火災から家財や食料を守るため厚板の上に木ぐいを打ち込んでそれを支えに土を塗りあげた、土塗り板倉となっていて、中には遠くウクライナやスロバキア等、東欧の国々に見られる校倉造を下地に木ぐいで土蔵化したクラも見られ、この集落のことを景観の類似性から日本のチロルと評した地理学者の言葉はあながち表層に限らず、土と木の技術の普遍的な繋がりを示唆するものであったかもしれません。
天竜川水系最南端の板倉
天竜川の水源は、諏訪湖であり、諏訪湖に流れ込む河川の多くは、八ヶ岳山麓を水源としています。そしてモミやカラマツ、アカマツの木材資源を背景とする八ヶ岳山麓の板倉の分布域は、同種の木材が供給される伊那谷まで天竜川に沿って連続しています。この天竜川水系に続く板倉の分布域では、校倉づくりの井籠倉と、落し板構法による落し板倉が混在し、さらに4〜12cm程度の厚板に土を塗って仕上げたものと板壁のものが混在しているのが特徴です。しかし天竜川の中流域では、土蔵と板倉が混在するようになり、さらに近世から伊那谷の流通拠点であった飯田周辺では、土蔵の方が一般的となります。八ヶ岳山麓から連続する板倉の分布域は、伊那谷で一端途切れるものの、下栗集落のように、クリ、モミやカラマツが植生する遠山谷の秋葉街道沿いの集落や、天竜川支流の最上流の集落に飛び地の分布域を確認することができます。そして秋葉街道を南進し、さらに峠を越えると静岡県側の山地では気候が温暖になり、整備されたスギ林やみかんの果樹が点在する茶畑が広がり、集落で板倉を見ることがなくなります。
現在確認できる天竜川水系の板倉文化圏の最南端に位置するのが、下伊那郡泰阜村の漆平野(しっぺの)と栃城(とんじろ)です。両者は、遠山谷を囲む山地の中に位置する木地師の集落として知られ、周囲から途絶したような場所に立地しているものの、かつては遠山谷と伊那谷を結ぶ山道上の要所にあったと考えられる集落です。泰阜村の有形文化財として指定されている栃城の井籠倉は、所有者の祖先がこの地に移り住んだ約120年前に建てられたとされており、河川の氾濫により、前面にあった下屋を流失したと伝えられるものの、ヨキによって仕上げられたモミとカラマツ材の半割材を隅部の仕口で接合し、さらに一段ごとに、10cm幅のダボで接合する堅牢な造りを示しています。さらに隅部の勝ち手(凸側)の壁材の端部が長いもので30cmも飛び出しているのが特徴的で、最初から土塗り板倉として仕上げることを想定していないことがわかります。同じく有形文化財として残されている漆平野の板倉は、一階のみが井籠倉とされた事例で、二階部分は物置きとされ、養蚕の為に用いられた道具が置かれていました。こちらは主屋に隣接する立地でありながら、やはり壁材の隅部を外部に向けて飛び出させ、土塗りの板倉として仕上げるつもりがなかったことが良く伝わります。これら事例は、地形上、地質上、稲作が困難な集落に立地し、壁土の入手が困難であったからか、また比較的居住密度の低い集落に位置するためか、壁板を箱状に精巧に組み合わせ、クラとしての機能を満たそうとしていたことがわかります。陽の光にヨキの刃跡が浮かびあがると、板倉の素朴な表情となり、シンプルな機能と形と素材の豊かな関係性を引き立ててくれます。
註1 1618年(元和年間)一般的には遠山氏の後継者問題により、改易されたとされ、以後千村氏が代官として天領を治めた。
註2 1896年(明治29年)王子製紙による共有林の伐採開始。