受け継がれる校倉造(樋口貴彦/建築家、職業能力開発総合大学校 准教授)
スイスのアルプス山脈は南部の地中海世界と北部のヨーロッパ平原を隔てており、スイスの山岳地域はそのアルプス山脈の北と南にまたがる場所に位置している(図1)。日本人に人気のあるサンクトモリッツやインターラーケン、ツェルマット等は険しい岩肌の4000m級の山々を望める場所であり(写真1)、山岳鉄道が走りその車窓から風光明媚な景観を楽しむことができる山岳観光の拠点として知られている。こうした観光地としてのスイスアルプスのイメージの他に、日本人に馴染み深いアルプスの景観としては、1974年に放映されたアニメーションの「アルプスの少女ハイジ」(ヨハンナ・シュピリによる同名の小説が原作)に登場する山地の風景があるのではないだろうか。原作の舞台となったマイエンフェルトはスイス南東部に位置するグラウビュンデン州に実在の村である。主人公のハイジが暮らすのは人里離れたおじいさんの山小屋で、その脇には大きなモミの木がある。その周辺はまばらな木々と草むらに覆われた牧地となっていて、そこにハイジの友人で羊飼いの少年ペーターが麓の村から羊やヤギを連れてやってくる。ハイジがクララの住むフランクフルトに奉公に出るまでは、物語の舞台はこの山小屋周辺の牧地と麓の村が中心となっている。
稲作を農業の主体として、沢に沿った谷間に集落が広がる日本の山地とは対照的なこの風景は、乳製品や肉類の生産を主とする酪農における家畜や人の移動と、標高差の激しい山岳地の気候や植生と関係が深い。春から初夏にかけて、家畜に集落の周りに生えた草を与えた農家は、夏の間に高地に生える草を家畜に食べさせるために、一家で麓の村を離れ、普段生活している場所よりも数百から千メートル以上も標高の高いアルプ(Alp、イタリア語圏、ドイツ語圏での名称)と呼ばれる場所にやってくる。アルプは季節性の集落であり、そこには家族が居住するための最低限の住居と家畜小屋がある。アルプの家屋は、近年になって手を加えられたものを除けば、いずれも村の家のようなしつらえはなく、周辺から手に入る素材を組み合わせた、人間が初めて素材を加工するときの新鮮さをとどめたような風采をしている。使われる建材は石と木、それに石灰を用いた原始的なモルタルであるが、それらが場所と機能に応じることでいくつかの形式を生み出している。石造、木造、それらを部位によって使い分けた混構造、建物を見ているだけでそれが建つ周辺の環境が察せられるくらい、建築の構法にはその場の標高や周辺の樹種が強く影響を与えていることがわかる(図2)。
古代より地中海地域との交通の要所であったスイスのアルプス山脈一帯は南側にイタリア語を話す人々の、また北側にはドイツ語やロマンシュ語を話す人々の集落が分布しているが、標高1000mを超え森林限界となる2000m以下の山麓では共通して多様な校倉造りの家屋を見ることができる。ティチーノ州マッジャ谷は、イタリアとの国境となっているマッジョーレ湖に注ぐマッジャ川の上流に当たる地域で、急峻な地形に立地するため、短い移動距離の中で標高差のある多様な景観の集落が分布しており、また最も古い姿の校倉造りの建物が残されている地域でもある。谷筋の集落は、標高600m程度のチェビオを起点に谷奥のボスコ・グリンやチーマルモットに至るまで、石材→広葉樹→針葉樹→石材と家屋に用いられる主材料が移り変わり、それに応じて村並みが変化する。この谷筋における校倉造りは、主に家畜小屋と穀物倉庫さらに住居に用いられ、標高が低い場所ではクリやブナの丸太材が組まれ、標高の高い集落では、カラマツやモミが用いられている(図)。また特に多様な姿が見られる穀物倉庫は、アルプスを超えて北から南に移動し穀物を共同で保管してきたドイツ語系コミュニティと家族単位で保管してきたイタリア語系のコミュニティでは、規模やディテールが異なっている。(図3-4)
同じくスイスアルプス南麓、グラウビュンデン州部ブレガリア谷のソーリョ村周辺には、古くから残る校倉造りの家屋を景観として残しつつ、現代の家屋に改修する取り組みが多く見られる。険しい山の中腹に位置し、このブレガリア谷で唯一、年間を通して日光を浴びることができる集落ソーリョでは、伝統的に栗の栽培と加工が行われ、地中海地域との交易によって財をなしたサーリス家の館や、石積みの3〜5層の建物が建ち並ぶ。村はおよそ標高1000mの場所に有り、周辺には栗やカラマツの林がみられるものの、家々は基本的に石造りで、建物上層や小屋組みのみが木造の家も多い。この村では20世紀初頭に村周辺の木材資源が枯渇し、今世紀になり育った木材が再び使われるようになった。クールの学校で建築を教えるアルマンド・ルイネッリ氏の設計事務所はその集落の中程にあり、使われなくなった校倉造りの納屋の改修を幾つも手がけている。集落景観への配慮から校倉造りの外壁はできる限り残し、内部にインフィルとなる壁を設け新たな生活空間を挿入する手法である。写真の家屋は筆者自身がルイネッリ氏の設計事務所の所員として設計に携わった事例で、18世紀に建てられた家屋の納屋の外壁を活かしつつ、入子状に木造のボックスを組み込み洗濯物を干したり、日光を浴びるための部屋「ソライオ」として改修した事例である。
一方でスイスアルプスの中心部に位置するグラウビュンデン州フリン村では現在の家屋として用いられる校倉造りが住宅の構法として息づいている。チューリッヒの大学で教えるフリン村の建築家ジョン・カミナダ氏は、現代の校倉造り住宅を設計し続ける建築家の一人だ。彼の仕事場はロマンシュ語が最も色濃く残るルムネチア谷の奥地にフリンと呼ばれる人口200人程度の小さな集落にある。バス街道が整備されるまでは寧ろイタリア語圏の地域と結びつきが強い村であったという。村は教会や学校のある本集落とその周辺に連ねる小規模の集落群で形成されており、本集落にはおよそ100棟を越える木造の建物がある。そのうち約半数が製材された木材を用いた校倉造りの住宅で、残りは主に丸太のままの校倉造りの農家の家畜小屋である。現存する木造家屋の中には18世紀に建設されたものもある(図3)。
この集落が初めて日本に紹介されたのは、1946年にスイスの農村研究者ハンス・シュプバッハ(Hans Schiipbach)氏がフリン村を事例としてまとめた山村の技術的基礎整備の報告書に着目した山村研究者の上野福男氏が1967年「スイス山村の技術的基盤整備例」として国内で報告したことによる。上野氏は、チューリッヒ近郊の町にあった山村連盟の窓口でフリン村のことを知り、実際に村を訪ね幾つかの家々の内部まで視察したと回想している。ハンス氏の報告書について上野氏は、「スイスでは20年前に山村振興のことがこのような形で取り上げられ、検討されていたこと、及び案出された対応等がどういうものであったかなどを知る上で参考になる点が多い。現在のわれわれにとって種々示唆を与えてくれるものである。」特に家屋の移転改善については「新しいものと旧いものとの調和を考えながら進歩を打ち立てようとする態度があらわれている。」と評価している。その主な観点としてあげられているのは、家屋の建設に用いられる木材の需要と節減率、家族構成に見合う健全な空間構成、照明などの電気設備の導入に伴う空間の整理、郷土性、歴史性の保護の観点からの外観の検討などである。これらの観点は、そのままフリン村の建築家カミナダ氏の設計課題に結びついている。しかしカミナダ氏が村で設計を始めたのは1987年、上野氏が日本にフリン村を紹介してからさらに20年後のことである。
参考文献
1)「スイスの山岳建築」樋口貴彦『日事連』日本建築事務所協会連合会, 2014
2)「スイス山村の技術的基盤事例」H.シュプバッハ著,上野福男・三井田圭右共訳, 山村振興調査会no.10,1967