瓦の建築考

旧香川県立体育館、解体決定の裏側。名建築と耐震基準、緊急輸送路の問い(Sho建築士/一級建築士・動画クリエイター)

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体育館の前で、スケッチをしている人がいた。その目線の向こうにあるのは、もうすぐ姿を消す名建築──旧香川県立体育館。2025年10月、この建物の解体工事が正式に着工することになった。3Dスキャンの機材が据えられ、記録作業が静かに進められている。誰もが、何かを残そうとしているように見えた。

吊り屋根が語る時代の記憶

この建物を設計したのは、丹下健三である。東京都庁や代々木体育館を手がけた、日本を代表する建築家だ。1964年に竣工したこの体育館は、日本の伝統的な「和船」をモチーフに、吊り屋根構造という工法で無柱の大空間をつくり出している。両側からケーブルで屋根を吊るという構造は、当時の技術の最先端だった。

2017年には、アメリカの非営利団体World Monuments Fund(WMF)が公表する「World Monuments Watch」にも選定されている。世界中の保存が望まれる建築物をリスト化したもので、国際的にも高い評価を受けていたことを示す。

それでもこの建物は、解体されることになった。

筆者撮影

基準に届かなかった耐震性

香川県教育委員会が2025年9月に公表した資料によれば、旧香川県立体育館は平成24年度(2012年度)に耐震診断を実施1している。耐震診断の結果、1階と中2階が安全基準を満たしていないことが分かった。県の資料では次のように記されている。

「Is値が安全の基準となる0.54より低いため、1階や中2階の柱・壁が損傷・破壊することにより、建物が倒壊し又は崩壊する危険性がある」  

──香川県教育委員会「旧香川県立体育館に係る記者発表資料」(2025年)

筆者撮影

保存を求める声と、解体の決断

第三者委員会や建築の専門家たちは、保存を求める意見を繰り返し表明してきた。旧香川県立体育館再生委員会2などの団体は、活用案を提案したり、補強による再利用の可能性を検討するよう求めたりしてきた。専門家からは、吊り屋根構造を残したまま補強する再生案も提案されており、技術的には延命も不可能ではないとされる。

しかし県は、建設から60年が経ち、老朽化が進んでいること、そして建物が面する西側の道路が緊急輸送路に指定されていることを理由に、現状のままでは安全を確保できないと判断した。大規模地震の際に通行を確保する必要があり、1階部分が倒壊すれば緊急輸送路を塞いでしまう可能性がある。また、耐震補強後に建物を維持・活用していくための資金確保や運営主体の見通しが立たないことも課題とされ、解体の方針を変えることはなかった。議論は尽くされたが、結論は動かなかった。

県はすでに2022年、高松市サンポートに新しい県立体育館「あなぶきアリーナ香川」を整備しており、耐震性・設備・アクセスのいずれも旧館を上回る。行政としては、防災と機能更新の両立を図った形だ。

筆者撮影

2025年8月には解体工事の入札が公告され、9月5日に開札。合田工務店が約8億5,000万円で落札した。解体が進めば、この吊り屋根構造の実物は二度と見ることができなくなる。

失う直前に、私たちは何を残せるか

現場に立ち、この建物を見上げたとき、感じたのは単純な寂しさだけではなかった。建築の価値とは何か。それを「残すこと」と「壊すこと」で測るとき、何を基準にしているのか。

筆者撮影

耐震基準、補強費用、緊急輸送路の確保。これらはすべて、合理的な理由である。しかし一方で、この建物が持つ歴史的・文化的・構造的な価値も、簡単に無視できるものではない。

建築を「機能」だけで評価するのか、それとも「文化」として残すのか──。その間にある揺らぎこそ、今この建物が突きつけている問いなのだ。
壊すことが決まってからようやく、人々が記録を残そうとしている。スケッチを描き、スキャンをし、写真を撮る。その姿には、「何かを失う前に、せめて記憶だけでも持ち帰りたい」という思いが滲んでいる。

「残すべきか、壊すべきか」──その問いの前に、もう一つ問うべきことがあるのかもしれない。それは、「なぜ私たちは、失う直前になってようやく、その価値に気づくのか」ということである。

建築は物理的に存在している。しかし、その価値は物理だけでは測れない。構造、意匠、歴史、文脈、記憶。それらすべてが重なり合って、一つの建築の意味が成り立っている。旧香川県立体育館の解体は、おそらく止められない。けれど、この問いを残すことはできる。次に名建築が危機に直面したとき、今度こそ「失う前に」議論を始められるだろうか。

その答えは、まだ出ていない。

筆者撮影

【出典・参考文献一覧】

  1. 香川県教育委員会「旧香川県立体育館に係る記者発表資料」(令和7年9月) ↩︎
  2. 香川県「ご提言等の内容(旧県立体育館の解体について)」、World Monuments Fund “World Monuments Watch 2018” ↩︎
寄稿者
Sho建築士
Sho建築士
一級建築士 / 動画クリエイター
1992年神奈川県横浜市生まれ。明治大学理工学部建築学科卒業後、住宅メーカーでの施工管理、建設コンサルタントでの建築設計、工務店での管理建築士を経て独立。2021年より「Sho建築士」として建築の魅力を伝える活動を開始。専門的な視点で制作するショート動画が支持を集め、SNS総フォロワー数は15万人を超える。現在は、企業や教育機関との協働を通して、建築の価値を次世代へ届ける取り組みを進めている。
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