パティナのマチエール(尾花日向我/東京科学大学環境・社会理工学院建築学系博士課程)

先日、土門拳記念館で開催された「土門拳のマチエール!」展に唐招提寺の瓦屋根をおさめた組み写真が展示されていた。一方は本堂に正対し全体を写す引きの写真。私たちのなかに古くから共有されてきた屋根の佇まい、瓦屋根の風景である。もう一方では鴟尾(しび)付近へと画面が伸び、屋根としての「瓦」から、素材としての「瓦」へと、視点が変化する。
土門拳写真美術館(土門拳記念館)所蔵
まず目に留まるのは、材の表面の経年劣化による艶や黒ずみ、凹凸である。夕刻に射す陽の光の陰影によって瓦の肌合いが浮き上がり、時の流れが一枚一枚に異なった風合いをもたらしていることがわかる。丸瓦は頂部付近で淡いまだらの白色となり、軒のほうでは苔を生やし緑色を呈する。所々に黒の輝きを増す部分もある。
瓦というモチーフがもっているマチエールが刻明に写真化されることで、肉眼で捉える視界から切り捨てられてしまった空間や時間の流れが画面の中に含み込まれ、風雨雷火戦禍に堪えながら今日まで伝えられた霊場の、“天平の昔さながらの雰囲気”が浮かび上がる12。それとともに、そこには足繁くこの場所を訪れ、時には隅棟の瓦の上にまたがり長時間にわたって撮影を繰り返したという土門のモチーフに対する愛着、瓦との間のゆきずりならぬ関係のようなものがあり、素材と向き合う体験がいかに個人的なものであるかということに気づかされる3。
瓦は、合理的かつ経済的な構法として洗練され、寺社にはじまり住居に架かる屋根の形式として日本の街並みをつくってきた。そういった我々の中に定着している共有された風景としての存在である一方で、それを受け継いできた者、手入れしてきた者、近くで見守ってきた者にとっては、実に私的な存在でもある。土門が掴みとった瓦のマチエールはこちらの側面を照らしているように窺えるのである。
ここでは、所有の観点からみた建築のあり方について、情緒ある風合いをもたらす素材の経年変化を切り口に考えてみたい。というのも、新築偏重の時代が終わりを迎える今、古いものとの向き合い方を問い直すことがデザインのきっかけを探るうえで重要であると思えるからである。
建築物や家具、調度品やアクセサリーにおいて、長い年月の経過とともに色褪せ、風化していく素材の表情は、「パティナ(patina)」と呼ばれてきた。経年変化がもたらす「パティナ」のマチエールは、素材そのものが持つ外観とは異なる次元で、内在する記憶、思い出といった時間的な広がりや他の事物とのつながりを呼び起こし、表面には現れない趣きをも与える。
北欧の建築家アルヴァ・アアルトはパティナに特に意識的であった。彼は、古びた建物や工芸品を眺めたときの感動について以下のように記している。
No doubt this is partly due to the trace of human handwork on the surface, (中略)on the other hand, it also has to do with the signs of wear and centuries of patina in the building material.4
人の手に触れ、風雨にさらされ、そういった経年変化の過程で材はいちだんと趣きを増すとアアルトは考えていたようだ。1920年代から設計を始めた一連の合板による家具にもこの信条が窺える。丈夫な構造をそなえた、人に馴染む機能的な形態を、量産に適した合理的な技法とともに提案する。その一方で、ガラスや金属といった新素材を取り入れてゆく当時の風潮とは取って代わって、木材やリノリウムといった自然由来の素材を使用することに徹している。皆に共有された形態は、時間をかけて一人一人に馴染み、愛着を伴って長く使い続けられることが意図されているように思える。
昨今、このパティナが異常な付加価値を生むという状況がある。家具や骨董品の売買にとどまらず、この状況は不動産市場にも波及している。分譲時の価格より高い水準で高騰を続ける中古マンションの特集記事が組まれ5、「素材の風合い」「ヴィンテージ」といったフレーズを冠した賃貸物件の紹介を見慣れるようになってきた。
古いものを皆で共有し受け継いでいこうとするサステイナブルな姿勢はシェアの精神に符合するかたちで市場に根づき始め、その一方で“私有”という観念は“わたしだけ”に閉じた意味として緊縮してしまった。このままでは、“私のもの”として大事にされてきたものまでが共有・循環型の思考の中に回収されかねない。
鷲田清一は近著『所有論』において、所有のあり方を問いなおすうえで、フランスの思想家ピエール=ジョゼフ・プルードンによる「受託」という観念を導入している。
受託とは、じふんたちの財を、みなの受託を得、みなを代表して管理・運営することである。そして「当主」としてさしあたっての擬似「所有者」になるとしても、その所有に、かの(何がしかの対象を所有する者はそれを意のままにしてよいという)自由処分権が認められるわけではない。6
この「受託」という観念は、共有と私有を含み込んだひとつの所有のあり方であるといえるのかもしれない。
ひるがえって瓦屋根である。冒頭に述べたように、皆のものでありながら、同時に私のものでもあるというあり方が、この風景を今世まで繋いだのだと思える。長い時間をかけて洗練され、定着したかたちであるからこそこの状況は成立していて、一からつくり出すことは難しいのかもしれない。しかし、私たちが今暮らしている既に収歛した都市や建築を受け継ぎ、手を加えるという局面においては可能性がある。共と私の重なりの上に新たな建築のあり方が示されるとき、パティナという素材に刻まれるささやかな表情は、その先の未来を繋ぐ糸口となるのかもしれない。
【出典元・参考文献】
- 土門拳『写真作法』ダヴィッド社、1976年、「写真におけるマチエールの問題」 ↩︎
- 土門拳『土門拳の古寺巡礼 第二巻 大和(二)』小学館、1989年 ↩︎
- 土門拳『写真作法』ダヴィッド社、1976年、「愛情について」 ↩︎
- Goran Schildt 『Alvar Aalto in his own words』Otava、1997年、p33 ↩︎
- 『別冊太陽 ヴィンテージマンションに暮らす』平凡社、2024年 ↩︎
- 鷲田清一 『所有論』講談社、2024年、p424 ↩︎