瓦の建築考

食べるをつくる風景への問い 台所と生産地から考える(岡根谷実里/世界の台所探検家×正田智樹/建築家)

ShodaTomoki

本コラムは、2026年7月2日 (木)に行われたオンライン対談『食べるをつくる風景への問い 』のアーカイブです。

岡根谷 実里(おかねや・みさと)

世界の台所探検家。長野県生まれ。世界各地の家庭の台所を訪れて一緒に料理をし、料理を通して見える暮らしや社会の様子を発信している。40以上の国と地域、190以上の家庭を訪問。著書に『世界の暮らしから社会が見える』(大和書房)、『世界のお弁当』(三才ブックス)、『世界の台所の間取り』(エクスナレッジ)など。

京都芸術大学客員講師、立命館大学BKC社系研究機構客員協力研究員、大阪大学感染症総合教育研究拠点(CiDER)連携研究員。

現在はオランダ在住。

対談|台所と生産地から、「食べる」をつくる風景を考える
図にすることで見えてくるもの

正田

岡根谷さんにまず聞いてみたかったのが、台所の風景をどう伝えるかということです。書籍『世界の台所の間取り』では、平面図をベースにしながら奥行きを与えた図で描かれていますよね。なぜ、この表現になったのでしょうか。

岡根谷

これは難しかったですね。版元のエクスナレッジさんが建築系の出版社なので、読み物としてだけではなく、資料としての価値も持たせたいという思いがありました。いろいろな国の台所を同じ形式で一覧できることが大事だったので、比較的みんなが見慣れている「間取り」という形式を使いました。

ただ、実際に家庭に滞在しているときは、平面図として台所を見ているわけではないんですよね。しかも、私自身も最初から間取りの本をつくるつもりで写真を撮っていたわけではありません。いろいろな方向から撮った写真を組み合わせて、一級建築士のイラストレーターさんに図面へ起こしていただきました。

一方で、間取りだけでは生活感や、そこで人がどう動いているのかまでは見えにくい。だから写真やイラストも組み合わせながら補っています。

正田

私はそこがすごく面白いと思いました。この本を読んでいると、実は「台所」という部屋だけを描いているわけではないんですよね。

住宅を機能で分ければ、台所、リビング、玄関、ベランダと呼ぶことができます。でも、フィンランドでは石窯の熱が裏側のリビングまで伝わっているし、ブルガリアではガスコンロがベランダに出ている。キルギスでは冷蔵庫や調理場所そのものが家のなかや外へ分散している。

つまり、「料理する」という営みから空間を見直すと、台所という部屋の境界をどんどん越えていく。今回、平面図でその広がりまで描かれていることが、この本の面白さのひとつだと思いました。

岡根谷

確かにそうですね。先ほど正田さんがお話しされていた「自然のリズム」の話にもつながると思います。

たとえば醤油や味噌の生産も、いまは工場のなかにパイプを通して、非常に管理された環境のなかで完結させることができます。でも正田さんが紹介されていた生産現場は、「生産する場所」という閉じた空間のなかだけで完結していない。周囲の地域や自然につながっている。

もともと食というものは、そういうふうに周囲へ開かれたものだったのかもしれません。

台所と生産地に共通する「分散」

正田

今回、岡根谷さんの『世界の台所の間取り』と私の『Foodscape』を重ねてみて、共通しているのは「分散していること」なのではないかと思いました。

岡根谷さんが紹介された台所では、台所というひとつの部屋から行為がはみ出して、資源のある場所へアクセスしていきます。暑いから外へ出て料理をしたり、水がある場所へ行って洗ったりする。

食の生産でも、現代の工場なら、ひとつの場所に生産ラインをまとめて、人工的に必要な環境をつくった方が効率的です。でも、かつてはその環境を人工的につくることができなかった。だから光があるところ、風が吹くところ、水があるところ、適切な温度や湿度があるところへ行くしかなかった。

すると、生産の場所が地域のなかに分散していきます。それが同じ地域で繰り返されれば、やがて風景になる。

岡根谷さんが見ている台所と、私が見ている食の生産地は、スケールは違っても、必要な資源のある場所へ行為が開かれていくという点ではかなり近いのではないかと思います。

岡根谷

そうですね。ただ、これはトレードオフでもあると思うんです。

台所からどんどんはみ出した方が豊かだ、と単純に言えるわけではありません。全部を一か所に集約して、短い動線で料理できた方が早いし、食材も一年中同じものが手に入った方が楽ですよね。

でも、季節による揺らぎがあったり、家だけでは完結できなかったりするからこそ生まれる豊かさもある。

たとえば南インドの村では、共同の広場のような場所に、スパイスなどをすり潰す石臼がありました。家には電動のミキサーもあるのですが、しょっちゅう停電するので、停電するとそこへ行って手でゴリゴリと挽くんです。手間はかかるけれど、その方がおいしくなると言います。

しかも、そこへ行けば人が集まっていて、井戸端会議のようにおしゃべりをしたり、できたものを少し分けたりする。

別の家には、豆や米を挽く大きなウェットグラインダーがありました。どこの家にもあるわけではないので、その家がまとめて挽いて、近所の人たちに売っているんです。

みんなが一台ずつ持っていれば、それぞれの家で完結できて便利なのかもしれない。でも、持っていないからこそ、近所の人とつながる。

そう考えると、不便さがあるから生まれるコミュニティや、ある種の冗長性、豊かさもあるのだと思います。

正田

「不便さの良さ」ということですね。それはすごく面白いです。話を聞いていて思い出したのが、ギーディオンの『機械化の文化史』です。

S.ギ-ディオン 著 ; GK研究所 訳 ; 栄久庵祥二 訳『機械化の文化史 -ものいわぬものの歴史』、鹿島出版会、1978

この本では、機械化が社会のなかへどのように入り込んでいったのかが描かれていますが、そのなかに「家事の機械化」を扱った部分があります。家事の機械化が進んでいく背景には、そもそも家事が非常に大きな労働だったという問題があります。家事に費やされる時間や重労働から人を解放していこうという流れがあり、そのなかで家事の作業そのものが組織化されていきます。

特に面白いのが、「作業過程の組織化」という考え方です。

たとえばL字型のカウンターがあって、そこで食材を洗い、切り、加工し、煮る、焼くといった作業を連続的に行う。身体の動作と調理の工程を整理し、それに合わせてキッチンを設計していく。現在のシステムキッチンにつながるような考え方です。

これはもちろん、家事を労働として考えれば非常に重要なことです。重労働を減らし、時間的な拘束から解放するという大きな意味があった。

ただ一方で、工場で生産工程を効率化する考え方が、そのまま暮らしの営みのなかにも入ってきたとも言えると思うんです。

そう考えると、岡根谷さんが紹介された、暑いからベランダに出て料理するとか、石窯が暖かいから自然と人が集まるとか、共同の道具を使うために外へ出て誰かと出会うとか、そういうものは、作業効率だけでは説明できないですよね。

家事を合理化することで得たものはもちろん大きい。でも、その過程で、効率では測ることのできない暮らしの豊かさも、少しずつ失われてきたのかもしれないと思います。

今は昔と違って、いろいろな技術を選べる時代です。だから、すべてを効率化するのではなく、何を便利にして、どこにあえて手間を残すのかを考えることもできるのではないでしょうか。

誰にとっての「便利」なのか

正田

そこで少し聞いてみたいのですが、岡根谷さんが訪ねている家庭の人たちは、あえて自分たちで不便なものを残しているのでしょうか。それとも、どうしようもなくそういう生活をしているのでしょうか。

岡根谷

それは面白い問いですね。私はむしろ、みんな便利にしようとしているのではないかと思います。便利にしようとした結果、彼らにとっては便利なのだけれど、私から見ると不便に見える。結局、何が便利で、何が不便なのかは主観的なものですよね。その人が何を前提にしているのか、何を大切にしているのかによって変わります。

たとえば、何かを手に入れるために近所の家へ行かなくてはいけない。それを「わざわざ人の家まで行かなければいけなくて不便」と考えることもできる。でも、「自分の家でその作業をしなくていいのだから便利」と考えることもできる。

フィンランドの石窯もそうです。薪をくべること自体は面倒です。でも、料理と暖房をひとつの設備でまかなえるのは便利とも言える。

さらに、その家では親戚が森を持っているので、薪が身近に手に入ります。フィンランドには森林が豊富にあるから成立しているわけです。もし同じものを、薪を手に入れにくい環境へ持っていったら、まったく違う評価になるはずです。

つまり「便利」というものも、台所のなかだけで決まるのではなくて、その外側にどんな資源があり、どのような暮らしをしているのかまで含めて決まるのだと思います。

正田

そう考えると、便利/不便という言葉自体を、環境との関係から捉え直す必要がありそうですね。

地域の知恵は、どのように反復するのか

正田

もうひとつ聞いてみたいのが、「反復」についてです。

私はカレマ村のワイン生産について、ひとつの知恵が石柱というかたちになることで、地域のなかに反復されていくと考えています。

石に太陽熱を蓄えることでブドウを育てるという知恵が、建築という誰もが使えるかたちになる。いわば知恵がオープンソース化され、それが何度も使われることで風景になっていく。一方で台所は、それぞれの家の内部にあるものです。生産地の風景のように、地域の知恵が同じようなかたちで反復することはあるのでしょうか。

岡根谷

ある程度はあると思います。ただ、生活の選択肢が多様になっているなかで、それがどこまで維持されているのかは難しいですね。

先ほどのフィンランドでも、石窯がある家とない家がある。同じ地域だからといって、同じ間取りになるわけでもありません。

ただ、間取りというスケールでは見えにくくても、鍋や調理器具までスケールを小さくすると、地域で共有されている知恵が見えることはあります。

たとえば、その地域の土でつくられた素焼きの鍋があります。その鍋で煮込むとおいしくなるとか、火の入り方を調整できるとか。

モロッコのタジン鍋もそうですね。少ない水分で料理できるようになっている。

インドでは金属の皿をよく使うので、それを垂直に立ててしまうラック型の食器棚がある。金属だから割れにくく、陶器のように大切にしまう必要もない。

そういうものまで含めて見ていくと、地域の環境や食文化に合わせた知恵は、さまざまなスケールに埋め込まれていると思います。

正田

なるほど。建築だけではなく、道具や食器までスケールを横断して見ると、地域に埋め込まれた知恵がいろいろなところに現れていることがわかる。生産の風景は外部に開かれていて、多くの人から見えるので、ある形式が共有され、反復されやすい。一方で台所は家の内側にある。だから同じ知恵でも、道具や食器、使い方といった、もう少し小さなスケールに現れるのかもしれませんね。

岡根谷

一方で、食という点では同じでも、台所に比べて生産の風景の方がオープンで、パブリックですよね。だからこそ、知恵も共通化されやすいのかもしれません。

正田

それはあると思います。組合のような仕組みもありますし、周囲の人が同じものを見ながら生産していることも大きいと思います。

美しい風景を守るのか、営みを続けるのか

正田

風景が公共的だという話で、最近調査した静岡のわさび田を思い出しました。

わさびは光を必要とする一方で、熱には弱いので、かつてはハンノキを植えて日陰をつくっていました。ところが、いまは管理の問題などから、寒冷紗に置き換わっている場所があります。

静岡県筏場のわさび田:石畳が水を流し、ハンノキが太陽熱からわさびを守る

静岡県筏場のわさび田:寒冷紗とハンノキは太陽熱からわさびを保護するという同じ役割を持つ

現地で聞いた話で興味深かったのが、農業遺産としてその風景をどう捉えるかということです。日本農業遺産の側からは、寒冷紗の色を統一したり、できれば樹木へ戻したりして、風景を整えたいという意見がある。一方、世界農業遺産の側では、生産者が無理なく営みを継続することを優先し、風景はその結果として考えるという話を聞きました。

ここには、美しい風景を維持することと、生産の営みを維持することのどちらを優先するのかという問題があります。

私たちは農村の美しい風景を見ると、それを残したいと思います。でも、生産者は美しい風景をつくるためにわさびをつくっているわけではない。生産の営みがあって、その結果として風景が現れている。だから、風景だけを固定して保存しようとすると、本来の営みとずれてしまう可能性があります。

岡根谷

そこは私もすごく考えます。

石積みの風景なども、私たちが見れば美しい。でも、美しいと思われる風景を維持するために生産しているわけではありませんよね。しかも、風景の価値というのは経済価値に置き換えにくい。「石でつくるよりコンクリートに置き換えた方が安いし、機能も満たしています」と言われると、論理として負けてしまうところがある。

正田さんの本でも、石でつくられていたものがコンクリートへ置き換わっていく例がありましたよね。機能として考えれば、それで問題はないし、進化と呼ぶこともできるかもしれない。でも、それを読んだときに私は少し心がざわっとしたんです。

「何が問題なの?」と言われれば、生産という観点だけでは問題がない。でも、営みとして考えたら、何かが変わってしまう。その風景の価値を何によって捉えるのかは、難しいところだと思います。維持するにはお金もかかりますから。

「これを食べたい」が、風景を残す

正田

そこで大切なのが、「残そうとするモチベーション」なのだと思います。

フィンランドの石窯の話でも、石窯を文化財として守らなければならないから残しているというより、石窯で焼いたカルヤランピーラッカを食べたいという思いがある。

その「食べたい」という気持ちは、とても強いですよね。

風景だけを見て「これを守らなければいけない」と言うよりも、「このおいしいものを食べ続けたい。だから、それをつくるための技術や建築や環境が必要だ」という方が、ずっと自然な動機になる。

岡根谷

文化的な価値と経済的な価値が、同じ方向を向くと強いのかもしれませんね。「やっぱりこれ、いいよね。残したいよね」という方向へつながっていく。

ただ、それがいつも正解なのかという疑問もあります。

正田さんの発表の最後に、機械のリズムから自然のリズムへどうシフトしていくかという話がありましたよね。でも、自然のリズムへ戻すことが、本当にいつも正解なのだろうかとも思いました。

たとえば私の地元の長野では、冬の寒さを利用して寒天をつくっています。でも近年は温暖化によって、自然環境だけではつくれなくなってきていて、機械を使う必要が出てきている。

環境変化が大きくなればなるほど、かえって自然に合わせることが難しくなる。少しパラドキシカルですよね。

正田

そうですね。私も、すべてを昔の方法へ戻せばいいとは考えていません。

やはり、まず生産の営みが続いていくことが大切です。

そのうえで、自然に開かれていることや、地域の資源と関係を持っていることに、どんな価値があるのか。それを見つけて、言葉にしていく必要があると思っています。

「自然だから良い」ということではなくて、自然との接点を持つことで生まれている豊かさとは何なのか。そこを考えながら、自然と機械をどう組み合わせるのかを選んでいく必要があるのだと思います。

地域のなかで循環するという合理性

岡根谷

もしかすると、そこには地域のなかで資源が循環するというサステナビリティの視点があるのかもしれません。その土地で昔から行われてきたものは、その土地にある資源を使って成立していることがあります。短期的な経済合理性だけを見れば不利でも、それに合わせることで地域の技術や産業が続いていく。

たとえば、石積みをコンクリートに置き換えれば、安く、早くつくれるかもしれない。でも石積みを使い続ければ、地域に石を積む技術が残るし、その仕事も続いていく。

台所でも、その地域で昔から使われてきた素焼きの鍋の方が、遠くから持ってきた工業製品よりも、その土地の料理や環境に合っていることがある。

そういう意味では、ひとつの道具やひとつの生産工程だけを取り出して効率を判断するのではなくて、地域のなかでどのような資源や技術が循環し、人の関係がつながっているのかまで見ていく必要があるのかもしれません。

正田

確かにそうですね。

大きな経済のスケールで見たら非効率に思えるものでも、地域のなかの循環として見れば、むしろ合理的である可能性がある。

先ほどのインドの石臼やウェットグラインダーの話もそうですよね。すべての家庭が一台ずつ持つのではなく、地域のなかで共有することで、人やものの関係が生まれている。

そう考えると、岡根谷さんが台所から見てきたことと、私が食の生産地から見てきたことはかなりつながっています。

ひとつの台所、ひとつの工場、ひとつの生産工程のなかですべてを完結させるのではなく、周囲にある光や熱、水、風、土地、道具、技術、そして人へと開いていくこと。

そうしたさまざまな関係のなかで、「食べる」はつくられているのだと思います。

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寄稿者
正田智樹
正田智樹
建築家
建築家。TXTA建築設計事務所共同主宰。1990年千葉県生まれ。幼少期から青年期にかけてフランス、インドネシア、中国、ベルギーで生活し、多様な文化や環境に触れる。2014年東京工業大学工学部建築学科卒業。2016-17年ミラノ工科大学、2017年東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻を修了。在学中に日本各地の伝統的なものづくりの工房やイタリアの伝統食の生産の現場を調査。2018年-25年竹中工務店設計部にてオフィスビルや劇場、展覧会の設計に携わり、グッドデザイン賞、ウッドデザイン賞、JID賞、空間デザイン賞など受賞。2026年独立、東京科学大学大学院博士課程在籍。人々の暮らしや食文化を基点に建築を設計する。著書にイタリアと日本の伝統食と建築、風景を描いた『Foodscape フードスケープ–図解 食がつくる建築と風景』がある。
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