食べるをつくる風景への問い『世界の台所の間取り』から(正田智樹/建築家)
本コラムは、2026年7月2日 (木)に行われたオンライン対談『食べるをつくる風景への問い 』のアーカイブです。
岡根谷 実里(おかねや・みさと)
世界の台所探検家。長野県生まれ。世界各地の家庭の台所を訪れて一緒に料理をし、料理を通して見える暮らしや社会の様子を発信している。40以上の国と地域、190以上の家庭を訪問。著書に『世界の暮らしから社会が見える』(大和書房)、『世界のお弁当』(三才ブックス)、『世界の台所の間取り』(エクスナレッジ)など。
京都芸術大学客員講師、立命館大学BKC社系研究機構客員協力研究員、大阪大学感染症総合教育研究拠点(CiDER)連携研究員。
現在はオランダ在住。
食べるをつくる風景を考える
正田
本日は「食べるをつくる風景への問い」というテーマで、岡根谷実里さんとお話をしていきたいと思います。岡根谷さんが先月『世界の台所の間取り』を出版されたことをきっかけに、以前から一度お話ししたいと思っていたことが実現しました。
今回まず考えてみたいのは、おいしい食べ物を生み出す風景とは、どのようなものなのだろうかということです。
私たちは毎日、当たり前のように食べています。でも、食べ物は自然に食卓へ現れるわけではありません。畑や海で食材を育て、加工し、運び、台所で調理し、それを食卓で食べる。「食べる」というひとつの行為は、そうしたさまざまな営みや工程の積み重ねによってつくられています。
岡根谷さんは世界各地の家庭を訪ね、台所や食卓から、その土地の文化や暮らし、社会を見てこられました。一方、私は食の生産地を訪ね、そこにある建築に着目しながら、食の生産がどのような風景をつくってきたのかを調べています。
今日は、家庭の台所から食を見る岡根谷さんと、生産の現場から食を見る私、それぞれの事例を行き来しながら、「食べる」をつくる風景が、どのような場所や営みによって成り立っているのかを一緒に考えていければと思っています。

岡根谷
私も正田さんの『Foodscape』には以前から興味がありました。食べ物というのは、皿の上にあるものだけではなくて、もっと広く捉えられるものだと思っています。普段、私は世界各地の家庭に滞在して、一緒に料理をさせてもらっています。そこで知りたいのはレシピそのものではなくて、どうしてこの食べ物が生まれてくるのだろう、そこから何が見えてくるのだろうということです。
食べ物には、その土地の気候や風土はもちろん、社会情勢や社会の変化など、さまざまなものが映し出されています。なぜこの食べ物がここで食べられているのだろうと考えることで、環境の問題が見えてきたり、以前は食べられていたものが今では食べられなくなっている背景から、社会の変化が見えてきたりする。
そういう意味で、食を通して社会を知り、伝えるということを続けてきました。
正田
岡根谷さんが見ているのは、食べ物が家庭に入ってきてから、調理されて「食べる」に至るまでの風景ですよね。私はその少し手前にある、生産の場所を見ています。
岡根谷
そうですね。でも、そのふたつはつながっていると思います。料理を見ていても、料理は突然その空間に生まれるわけではなくて、その手前には台所があります。さらに広く見れば、市場や地域がある。そこには、正田さんが見ている食の生産風景も含まれていると思います。
料理をより深く知るためには、料理だけを見るのではなくて、台所、市場、地域へと視野を広げていく。そのことで、なぜこの料理がここで生まれるのかという文脈が、より深く見えてくるのだと思います。
正田
まさに、そこをつなげて考えてみたいですね。育てる、加工する、運ぶ、調理する、食べる。それぞれを別々のものとして見るのではなく、その連なりの中に、どのような場所や建築、人の営みがあるのか。
岡根谷さんの「台所」からの視点と、私の「生産地」からの視点を重ねることで、普段は見えにくい「食べる」をつくる風景が見えてくるのではないかと思っています。
岡根谷:台所の間取りから、食べ物が生まれる文脈を見る
岡根谷
私はこれまで、世界各地の家庭に滞在して、その家の人たちと一緒に料理をするということを続けてきました。そこで知りたいのは、レシピそのものではありません。どうしてこの食べ物が生まれてくるのだろう。そこから何が見えるのだろう。ということです。
食べ物には、その土地の気候や風土だけでなく、社会情勢や暮らしの変化など、さまざまなものが映し出されています。なぜこの場所でこれが食べられているのかを考えていくと、環境問題が見えてきたり、かつて食べられていたものが食べられなくなっている背景から社会の変化が見えてきたりする。私は、そうやって食を通して社会を知り、伝えてきました。
今回出版した『世界の台所の間取り』では、そのなかでも「間取り」に注目しています。
料理は突然、皿の上に現れるわけではありません。その手前には台所があります。そして、さらに広く見れば市場があり、地域があり、食材が生産される場所があります。たとえば、日本の煮物をオランダでつくろうとしても、同じようにはできません。調理器具が違い、市場で手に入るものが違い、水も違う。そもそも、同じ料理をつくっても、その土地ではあまりおいしく感じられないことさえあります。
だから、料理を深く知ろうと思ったら、料理だけではなく、台所から市場へ、地域へと視野を広げていく必要がある。間取りは、料理が生まれる文脈を物語ってくれるものなのだと思っています。
石窯がつくる、フィンランドの冬の食
フィンランドには、東部のカレリア地方生まれの「カルヤランピーラッカ」という料理があります。ライ麦の生地に、牛乳で煮た米を包んで焼く一口大のパイで、卵とバターを混ぜたものやスモークサーモンなどをのせて食べます。家族が集まるときや、クリスマス、誕生日などにも登場する料理です。
私は最初、フィンランドのとある家庭を夏に訪れました。この家では普段カルヤランピーラッカは冬に石窯で焼くものなのですが、このときは石窯を使うと部屋が暑くなってしまうので、電気オーブンで焼きました。私には十分おいしく感じられたのですが、家のお母さんはどこか納得していなくて、「石窯で焼いたら全然違うし、この数では足りない」と言うんですね。
それが気になって、冬にもう一度訪れました。
石窯で焼いてみると、まず味が違いました。300度を超えるような高温で焼くので、ライ麦の生地が本当にパリッと焼ける。そして石窯は容量が大きいので、数回転で100個以上焼くことができます。すると当然、ひとりでは手が足りない。家族総出の作業になるわけです。
電気オーブンだったら、お母さんひとりでも料理が完結する。でも石窯だと、同じ料理をつくるために家族が集まってくる。食べ物そのものだけでなく、その周囲で起こる人の動きまで変わってくるのが面白いところです。

なぜ冬になると石窯が使われるのか。それは間取りを見るとよくわかります。
石窯は家のほぼ中央にあります。石窯を温めると、台所だけでなく、その裏側にあるリビングまで暖まる。つまり石窯は、料理のためだけの設備ではなくて、家全体の暖房でもあるんです。
わざわざ料理のために火を入れるのではなく、家を暖めるためにすでに火が入っている。その熱があるなら、料理にも使おうということです。
だから冬になると、カルヤランピーラッカだけではなく、ジャガイモのキャセロールや、ヘラジカの煮込み、ライ麦パンなど、石窯を使った料理が日常的につくられます。
さらに、石窯から外に伝わる穏やかな熱は、ライ麦パンの生地を発酵させるためにも使われています。石窯の側面も、触れられないほど熱いわけではなく、寄りかかると気持ちがいいくらいの温かさになる。すると、自然と人がそこへ集まってきて、おしゃべりが始まる。
つまり、この石窯は暖房であり、調理器具であり、発酵のための熱源であり、人が集まる場所でもある。
石窯のある台所風景そのものが、フィンランドの冬の食を生み出しているのだと思います。

もちろん、フィンランドのすべての家庭に石窯があるわけではありません。別に訪れた家庭は、数年前につくられた比較的新しい一軒家でした。この家には、昔ながらの大きな石窯はありません。代わりに特徴的だったのが、台所の真ん中にダイニングテーブルが置かれていることでした。
これによって、家族が自然に料理に参加するようになっています。料理に参加するといっても、包丁を使ったり、火の前に立ったりするだけではありません。冷蔵庫から食材を取り出す。棚から皿を取る。食べ終わった食器を食洗機に入れる。ダイニングテーブルが台所の真ん中にあることで、「台所に入る」というハードルが低くなり、家族が自然に小さな作業を分担しているんです。
一方、リビングには小さな薪ストーブがあります。見た目は暖房用ですが、その上で鍋料理をつくったり、下の火で子どもたちがソーセージを炙ったりもします。
昔ながらの石窯はなくなっていても、火を使って暖をとり、その熱を料理にも使うという文化そのものは、別のかたちで残っている。

台所風景は、伝統的なものがすべてモダンなものに置き換わるというほど単純ではありません。何を食べたいのか、どのように暮らしたいのかという選択やこだわりを受けながら、文化のなかで少しずつ進化していくのだと思います。
暮らしの工夫が埋め込まれる、ブルガリアの台所
次はブルガリアの台所です。
ブルガリアには、社会主義時代につくられた集合住宅が多く残っています。都市の急速な労働人口増加のなかで大量の住宅をつくる必要があったため、同じような間取りの比較的小さな住戸が数多く建てられました。私が訪れた家庭の台所も、それほど広くなく、小さな台所で火を使うと、すぐに空間が暑くなってしまう。
そこで、この家ではベランダにガスコンロを置いて料理をしていました。

台所の中で食材を洗ったり切ったりして、火を使うときにはベランダへ出る。ベランダなら熱気や湯気を外へ逃がせますし、油を使っても室内全体が汚れない。この日も、パプリカを焼いて皮をむき、チーズを詰めて衣をつけて揚げるなかで、揚げる工程はベランダで行われていました。
ほかにも、わずかな隙間につくられた収納や、流し台の前に取り付けられた鏡など、限られた空間を上手に使うための工夫がたくさんあります。

流しの前の鏡は、顔を見るためではありません。家の主曰く、外から入ってきた光を反射させて室内を明るくし、同時に空間を少し広く感じさせるのだそうです。
世界の台所を訪ねていると、「台所が広すぎて困っている」という人にはほとんど出会いません。広ければ広いで物が増えて、結局狭くなっていく。それに、住宅の間取りを考えるとき、必ずしも台所が最優先されるわけではありません。
だから台所はたいてい狭くて、そこにさまざまな制約のなかで生活するための工夫が埋め込まれていきます。
このブルガリアの家には、長い間同じ兄妹が暮らしてきました。つまり、そこで見えていたのは、設計された瞬間の台所ではなくて、何十年という暮らしのなかで少しずつ育ってきた台所の風景なのです。

「台所は一か所にある」という前提を外してみる
最後に紹介したいのが、キルギスの家庭です。
この家では、いわゆる台所と呼べる小さな一室があるのですが、台所の機能がそこにまったく収まりきっていません。
冷蔵庫とチェストフリーザーはリビングにあります。冬に使うガスコンロも別の場所にあり、夏になると玄関の外にIHコンロを置いて料理します。食材が必要になれば隣の部屋まで取りに行き、台所で洗い、ダイニングテーブルで切ったり麺を伸ばしたりする。そして麺を茹でるときには、玄関の外まで持っていく。

出典:『世界の台所の間取り』
一見すると、とても非効率です。「なぜ冷蔵庫を台所に置かないのか」と聞けば、「あちらの部屋の方がスペースがあるから」。「なぜ外で料理するのか」と聞けば、「夏は家の中が暑くなるから」と返ってきます。
そう言われてみれば、どちらも合理的です。
では、なぜ私には非合理的に見えたのだろうと考えました。それは、私自身が「料理に必要なものは、ひとつの台所に集約されているものだ」という前提を持っているからなのだと思います。
その背景を考える手がかりになるのが、キルギスの遊牧文化です。
伝統的な移動生活では、水が必要なら水のあるところへ行く。乳製品を加工するときには、そのための道具が置かれている場所まで行く。洗い物も外でする。
つまり、必要な資源をすべて人間の周囲に集めるのではなくて、資源があるところに人間が行って、そこで行為をする。
現代の住宅は、空調や給排水、電気などによって環境を制御できるようになり、人間を中心に設計できるようになっています。それ以前の、もっと風景の一部として生きていた暮らしでは、自然や資源の配置を中心に人の行動が組み立てられていたのではないでしょうか。
そう考えると、キルギスの一見ばらばらに見える台所にも、別の合理性が見えてきます。

間取りを見ることで、「当たり前」を問い直す
こうした台所風景を見ていると、自分が当たり前だと思っていたあらゆることを問い直したくなります。動線は短い方がいい。作業は効率的な方がいい。料理に必要なものは一か所に集約した方がいい。もちろん、それが便利な場合はたくさんあります。でも、それだけが台所の正解ではありません。
間取りを見る意味のひとつは、食べ物と風景との相互作用が浮かび上がってくることです。
つくりたい食べ物によって台所のあり方が変わるし、反対に、そこにある台所によってつくられる料理も変わってくる。新しい調理家電を買えば料理が変わるし、コンロが一口から二口になれば、できることも変わります。
そして、同じ国や地域のなかでも、暮らし方によって台所は違います。フィンランドのふたつの家庭を見ても、同じ国だから同じ台所になるわけではありません。国の代表料理や地域の代表料理という大きなくくりではなく、ひとつひとつの暮らしの単位で見ることで、その場所で実際に行われている営みを、より高い解像度で捉えらえるのだと思います。
また、間取り図そのものが調査の道具にもなります。
図に起こしてみると、現地にいたときには気づかなかったことが見えてきます。ブルガリアの家庭の場合も、「なぜここに扉があるのだろう」「なぜ二重になっているのだろう」という疑問から、もう一度住んでいる人に話を聞き、新しい発見につながりました。
間取りは、単に空間を記録するための図ではなくて、気づきや会話を生み出すための道具でもあるのです。
世界の台所を見ることは、珍しい暮らし方を知るだけではありません。自分にとって本当に使いやすい台所とは何なのか、暮らしを豊かにするものは何なのか。それまで無意識に持っていた前提を一度問い直して、自分たちの暮らしを考え直すきっかけになる。
世界の台所には、そうしたヒントがたくさん散りばめられていると思っています。
正田:食の生産から、建築と風景を読み解く
正田
岡根谷さんは、食べ物が生産されたあと、家庭の中に入って、加工・調理され、「食べる」までの風景を見てこられたと思います。私はその少し手前、食べ物が生産される場所を中心に見てきました。
私が『Foodscape フードスケープ―図解 食がつくる建築と風景』で考えたのは、昔から地域のなかで培われてきた食生産の知恵が、どのように建築のかたちへ置き換えられ、それが繰り返し使われることで、どのような風景をつくってきたのかということです。
「フードスケープ」という言葉自体はさまざまな意味で使われています。工業的な食生産が社会や風景をどのように変えてきたかを指して使われることもあります。私の場合は、もう少し具体的に、食をつくるための人々の知恵が建築として現れ、それが地域に反復することで生まれる風景をフードスケープとして捉えています。
食から建築と風景を見る
この研究を始めるきっかけになったのは、イタリアへの留学でした。
イタリアで暮らしていると、人々の食に対するこだわりの強さに驚かされます。食事に何時間もかけたり、友人とカルボナーラをつくれば、「生クリームを入れたらカルボナーラではない」と怒られたりする。そうした小さな場面のなかにも、自分たちの食に対する強いこだわりがある。
では、そうした食文化を支えている生産の場所は、どのようなものなのだろう。そこには、どのような建築があるのだろう。
そう考えて、各地の食の生産現場を訪ねるようになりました。
窓や軒、柱といったもの自体は、私たちも普段目にする建築の要素です。しかし食の生産地では、それらが光、熱、風、湿気といった周囲の環境を利用するための道具として使われている。そうした事例を見たとき、食を軸にすれば、生産工程から建築、さらに風景までをひとつにつないで考えられるのではないかと思いました。
「おいしい」の背景まで考える
イタリアの食文化を考えるうえで、もうひとつ重要なのがスローフード運動です。
1980年代、ローマにマクドナルドが開店することに対して、地域の食文化が失われることへの懸念から反対運動が起こり、それがスローフード運動へとつながっていきます。
そのなかで興味深いのが、「ガストロノモ」という考え方です。

美食と聞くと、きれいに盛り付けられた料理や、その味を想像してしまいがちです。しかしここでいうガストロノモは、単に「おいしいものを食べる人」ではありません。そのおいしさが、どのような背景から生まれているのかまで考える人です。
いつも食べていたものの味が少し変わった。それはなぜだろう。栽培方法が変わったからかもしれない。生産環境が変わったからかもしれない。そうやって、皿の上の「おいしい」から、その背後にある生産や環境へと遡っていく。
これは、岡根谷さんのフィンランドの石窯の話ともつながると思います。
カルヤランピーラッカを食べたいから石窯が残されるのか、暖房として石窯があるからカルヤランピーラッカが生まれるのか。その関係は一方向ではありません。
スローフードの場合にも、まず「このおいしいものを食べ続けたい」という思いがあって、その背景を辿っていくと、この食を生み出している環境や技術、風景も大切にしなければならないというところへつながっていくのだと思います。
ひとつの知恵が反復して、風景になる
その関係が非常によく見えるのが、北イタリアのカレマ村です。
カレマは山間部にあるワインの生産地です。寒冷な環境のなかでブドウを育てるために、この地域では石でつくられた柱が使われています。
石は日中、太陽の熱を蓄え、その熱を周囲へ放射します。その性質を利用して、ブドウを寒さから守っているんです。
ただ、ブドウを育てているのは石の柱だけではありません。柱の上に架けられたパーゴラは光を受け、風に対応する。斜面につくられた石積みは、水はけをよくする。複数の建築的な要素が組み合わさることで、身の回りにある光や熱、風、水といったものを利用しながら、ブドウの生育を支えています。
そして収穫されたブドウは、圧搾され、発酵・熟成されてワインになります。熟成には安定した温度と湿度が必要になるため、今度は半地下の空間が使われる。
つまり、同じ1本のワインをつくるなかでも、栽培では太陽熱を蓄える石柱が使われ、熟成では地下の安定した温湿度が使われる。工程ごとに必要な環境を読み取り、その場所にある資源を利用する建築がつくられているわけです。
この村を遠くから見ると、斜面に白い石柱が無数に並んでいます。
ひとつひとつは、ブドウを育てるための小さな工夫です。しかし、「石に熱を蓄えてブドウを育てる」という知恵が地域のなかで共有され、繰り返し使われることで、やがて村全体の風景になっている。
私はそこに、知恵が建築というかたちをとることで、ある種オープンソース化されるような面白さを感じました。ひとりの知恵だったものが、誰もが使えるかたちになり、反復され、その土地の風景になっていくのです。
同じ食でも、地域によって建築は変わる
ワインの生産を少し抽象化してみると、ブドウという原材料がワインへと変化していく過程があります。その途中に、栽培、収穫、圧搾、発酵、熟成といった工程がある。
こうした基本的な材料の変化や工程そのものは、地域が変わっても大きくは変わりません。
では、地域によって何が変わるのか。
私は、それぞれの工程を成立させるための建築や道具が変わるのだと考えています。
寒い地域でブドウを育てようとすれば、熱を集める必要がある。そこで石の柱が使われる。ワインを熟成させるために安定した温度と湿度が必要であれば、半地下の空間が使われる。
同じ「ワインをつくる」という工程でも、それをある土地に置いた瞬間、気候や地形、光、熱、湿気といった地域固有の条件に応答しなければならない。その応答として建築がつくられます。
だからこそ、同じ食べ物をつくっていても、地域ごとに異なる建築が生まれ、異なる風景が生まれるのだと思います。
自然のリズムと機械のリズム
最後に、少し大きな話として考えているのが、「自然のリズム」と「機械のリズム」です。
伝統的な食の生産では、原材料が食べ物へと変化していく過程が、春夏秋冬の変化と結びついています。
そのとき、人間が自然に対して直接働きかけるだけではなく、その間に建築が入っています。光や熱、風、湿気、水などを取り出し、食の生産に役立てる。私はこうした建築を「エコロジカル治具」と呼んでいます。
一方、工業的な食生産では、外部の環境から切り離された箱をつくり、その内部に機械によって人工的な環境をつくることができます。すると、季節やその土地の気候に左右されず、一定の条件のもとで生産できるようになる。
ただ、現在の伝統食生産を見てみると、「自然」か「機械」かという二者択一ではありません。
たとえばワインでも、栽培や熟成には地域の自然環境を利用しながら、圧搾には機械を使う。発酵のように非常に繊細な工程では、ステンレスタンクを使って温度を管理する場合もあります。醤油づくりでも、発酵・熟成には木桶を使いながら、麹づくりの一部では機械を導入する。
つまり現代の伝統食生産は、すでに自然と機械が混ざり合ったハイブリッドな生産になっています。
大切なのは、昔の方法にすべて戻すことではなく、食をつくる一連の工程のなかで、どの部分で自然との関係を持ち、どの部分を機械に委ねるのかを考えることではないかと思っています。
身の回りの資源との関係を完全に断ち切るのではなく、光、熱、風、水、湿気、地形といったものと、どこで再び接点を持つことができるのか。
そうした視点から食の生産を見直すことが、これから私たちがどのような食の風景をつくっていきたいのかを考える手がかりになるのではないかと思っています。




