校倉と板倉のサスティナビリティ(樋口貴彦/建築家、職業能力開発総合大学校 准教授)

“StrickBau”(編み込まれた構造)の家
2001年、スイスの建築家ピーター・ズントー氏が来日し、某建材メーカーによる現代建築セミナーが有楽町で開催された。当時、工務店の従業員として民家再生事業に携わっていた筆者は、セミナーで紹介されたとある住宅に感銘を受けて彼に手紙を送り、設計の指導を切望した。後日、スイス政府の奨学生として実際に彼の指導を受けるという幸運を得ることになるが、そのきっかけとなった住宅というのが、スイスグラウビュンデン州ベルサム村の外れに建つグガルンハウスである。
この建物は、18世紀に建てられた傾斜地上の校倉造りの山小屋を改修したもので、斜面側に水回りなど現代の居住性を保つ空間を増築し、季節性の住居(別荘)として一体的に利用できるようにした施設である。新旧の建物は、それぞれが建てられた時代を背景に構法的には異なる仕組みの壁面を有しながら、ドイツ語で校倉造りを意味する“StrickBau”(編み込まれた構造)の言葉のとおり、新旧の部材を交差させながら繊細に接続されている。歴史的な建造物に対するズントー氏の洞察力とデザイン力が集約された作品と言えるが、筆者は後日、建築家になる以前の研究者としてのズントー氏の足跡をたどりながら、この増築が校倉造りの建築が受け継がれる際の普遍的な特徴を示した事例であることを知るのである。


スイス校倉造の住宅における増改築
バーゼルの家具職人の家に生まれ、家具制作を学んだという出自が、彼の建築作品における素材やディティールへのこだわりと関連づけて語られることがしばしばある。しかし彼がグラウビュンデン州の州都クール郊外のハルデンシュタイン村に設計事務所を構える以前の、州の歴史的建造物保存局に勤務する研究者としての取り組みについてはあまり知られていない。ズントー氏は州内の複数地域の家屋の更新記録や、都市史的視点からの景観の特徴をレポートしており、“Vrin, Lugnez, Siedlungsinventar Graubünden”(1975)という調査報告書においては、現在も校倉造りの住宅が建つルムネチア谷のフリン村における個々の建築の歴史的変遷について詳細にまとめている。前回の記事(Vol.3)で取り上げたように現在のフリン村は建築家ジョン・カミナダ氏の住宅作品群が立地する場所として語られることが多いが、ズントー氏の研究者もしくは地域景観の監修者としてのエピソードが残る場所でもある。

この報告書をもとに、村の中核に位置する本村について不足する情報を住人へのヒアリングによって補いながら、校倉造りの住宅の変遷について着目すると大凡以下のようなことがわかる。
①現存する住宅は18世紀以降に建てられている
②古い住宅の多くは中央の壁で仕切られ、屋根を共有する二世帯型住宅である
③20世紀以降に単家族型の住宅が増える
④1950年代と1970年代以降では改修の傾向が異なる
①について、校倉造りの家屋の建築年代は、家屋のファサードに象徴的に彫り込まれることが多いので、小屋裏に潜り棟木を確認しないと建築年代がわからない日本の民家に比べると比較的容易に確認ができる。ズントー氏が調査した中で最も古かった家屋は1738年に建てられたもので、本村の中心部の教会に接続する広場に面して建っていた。この住宅はズントー氏の監修により以前の住宅のファサードを再現する形で1970年代に再建されている。この住宅は②の特徴をよく示す事例であるが、再建前の調査図面を確認すると(図1)、1階・2階に共用廊下があり、二世帯の家族が家屋内で相互に行き来していた様子が思い浮かぶ。
③については、Vol.3でも取り上げた農村学者のハンス・シップバッハ氏による農村改善運動(1940年代)により、プライバシーを尊重した近代的なライフスタイルが普及したことに起因すると思われる。単世帯型の住宅は20世紀初頭より建てられており、この点について筆者は当時始まっていた山地へのツーリズムからの影響を受けスイスのナショナリズムスタイルのひとつであるシャレー風住宅普及の影響もあったものと考えている。④については、第二次世界大戦後に生じた人口増加の影響で、各家庭では不足する寝室を増築する傾向が見られた。1950年代の改修で見られた寝室の増築は、校倉造りの構法の特徴を生かして、垂直方向に壁を積み上げて行われていた。
一方で1970代以降の増築は、村外への人口の流出により人口減少に転じる中で、1958年に整備された水道設備との関係で浴室やキッチンなど主に水回りが拡充される傾向が見られ、配管工事の必要性から家屋は水平方向に拡張された。この水平方向の増築部分に関しては、校倉造りの壁ではなく木製パネル等が用いられている。このことから校倉造りは水平方向への拡張には適していないことがわかり、その点を踏まえるとズントー氏のグガルンハウスでの試みは、校倉造りの構法上の制約をディティールのデザインによりスマートに解消しようとした貴重な事例だと言える。



ここまで現在も校倉造りの建物が建てられているスイスの事例を見てきたが、Vol.1でも取り上げた日本の校倉造りの場合はどのように家屋の拡張に対応しているのだろうか?日本における校倉造りは住宅の構法としては発展してこなかったことは既に指摘したとおりであるが、日本を代表する歴史的建造物の中にも校倉造りの拡張性の課題を示した事例がある。
奈良県東大寺に建立された宝物庫である正倉院は、左右に校倉造りの宝物庫が設けられ、その中間に位置する宝物庫のみ、板壁を積み上げた落し板壁となっている。また筆者自身が博士論文の過程で調査を行った八ヶ岳山麓では、ドゾウと呼ばれる倉庫建築が大型化し、近代産業に関連した倉庫として用いられる中で、校倉造りから落し板壁の建築に変遷していく姿を見ることができる。

スイスの事例でもわかるとおり、校倉造りの建築は壁部材の長さを超えて水平方向に床面積を拡張しにくい特徴がある。そのため、八ヶ岳山麓のドゾウにおいては床面積を拡張させる場合、壁部材同士を水平方向に接続しやすいように中継ぎの柱が設けられた。ただ柱を用いると、今度は柱の両側の壁部材を緊結させておく工夫が必要になり、柱を跨いで両側の壁材を繋ぎ止める羽子板や、床根太の高さ等で1辺を貫く胴締め、壁体の頂部にのみ井籠型(校倉造り)の桁を設けるなどの手法が見られた(図3)。近世から近代における製材技術の発達により壁材として反割材から板材が多用されるようになると、さらに大型のドゾウが建てられるようになり、特に近代には養蚕業の倉庫建築の構法として当時としては世界的に見ても稀有な5層や6層の大型木造建築が建てられた(写真4)。

日本における校倉造りは、収蔵施設に特化した構法として受け継がれたことに加え、壁に土を塗って壁材が薄くなっても収蔵環境を保つ土壁の技術があり、それと上手く融合して、板材を用いた板倉へと変遷した。落し板を使い回し可能なパネルとすることで木造の多層建築に発展したが、戦後、地域の木材産業との結びつきが薄れて現在は受け継がれていない。一方、住宅の壁構法として用いられるスイスの校倉造りは、機密性を保つために壁の厚みが重要で、機械製材が導入されても半割材程度の厚みが保たれた。
現在も地域の木材産業と強い結びつきを保ち、木材を安価に入手できる環境からさらに断熱材を中間に挟んだダブルスキン校倉造りも普及し初めており、スイスにおける校倉造りは今後も地域の景観を保つ構法として受け継がれていきそうである。


参考文献:
・樋口貴彦・大和田卓「スイス山村の校倉住宅の更新手法に関する研究 -グラウビュンデン州-
フリン村を事例に」東洋大学ライフデザイン学研究no.18,pp. 181-189,2023
・樋口貴彦・安藤邦廣「八ヶ岳山麓における板倉構法の類型とその特徴」日本建築学会計画系論文集第73巻・第624号, pp. 303-310,2008
・『奈良時代建築の研究』浅野 清, 中央公論美術,1970


