瓦の建築考

山田脩二のカメラとカワラから建築写真を考える

加藤千佳

1.写真と瓦の親しい関係

山田脩二(やまだしゅうじ)という作家をご存知だろうか。山田は桑沢デザイン研究所リビングデザイン科で学び、凸版印刷を経て1962年に写真家としてデビュー。建築専門誌の『SD』(鹿島出版会)や『建築』(青銅社、中外出版)で建築写真家として活躍しながら*1日本各地を旅し、村や街、都市の風景を新旧問わず撮影、上述のような建築専門誌上でも発表した[Fig.1]。

そういった風景写真が話題を呼び、国立近代美術館の「15人の写真家」展(1974年)に選定されている。選考委員は岡田隆彦、桑原甲子雄、多木浩二、渡辺勉。山田以外の出展作家は荒木経惟や篠山紀信、高梨豊、中平卓馬、森山大道といった面々であり、この選出の偉大さがわかる。そして各地の風景写真をまとめた写真集『山田脩二/日本村1969-79』(三省堂、1979年)は現在も高い評価を受けている。1982年、職業写真家としての活動に「終止符宣言」を行って兵庫県淡路島の瓦生産地集落・津井へ移り住み、窯元で修行。写真家(カメラマン)から瓦師(カワラマン)へと転身した*2。その際山田が「フィルムや印画紙を焼くのも土を焼くのもヤキトリを焼くのもみな同じ」*3と写真家業と瓦業を等しくみている点は注目すべきだろう。

Fig.1 山田脩二撮影「⽇本村/今」『SD』⿅島出版会、1972年3⽉
「続・いま建築に何が問われているか」という特集の下、38ページにも渡って誌面の下半分に山田の写真作品が並ぶ。誌面の上半分を占める論考の内容とは直接的には関係ないにもかかわらず、
なんらかの関係を探してしまう。建築専門誌としては斬新な誌面構成。

2.親しさは匿名性、情報の抽象化

山田は20代前半のころより、40代の10年間は土を焼く仕事に従事したいと考えていたようだ。土を焼いてできるものはなにも瓦だけではなく、陶磁器なども当てはまる。しかし山田は、「同じ焼き物でも瓦は、花器、つぼ、抹茶茶わんなどとちがって、一枚だけ立派な瓦が焼けても役に立ちません。一枚一枚の瓦たちが連続して屋根に葺かれた時、多量の粘土を焼いたその素材の美しさが立ち(建ち)上がってきます」*4と述べており、非作品的で匿名的、あくまで材料である点に瓦の魅力を感じているようだ。また、山田がカワラマンとなって2年後に開かれた個展「淡路瓦・気配の会」の展評中で、建築家の伊東豊雄は、山田の瓦と写真について次のように記している。

一貫して作家の作品という趣が過度に表現されないように意図されている。瓦工場の片すみに転がっていれば、蹴とばしても気づかないような製品であったり、(略)誰も振り向かずに通り過ぎて行ってしまうようなもの、そのようにアノニマスな領域を逸脱しないような周到な抑制と配慮がされているのである。(略)しかしひとつの鬼瓦も、こうした会場の一角に置かれると(略)瓦がこんなに土臭い素材であったのかということを、いまさらのように感じさせられるのである。しかしこれは考えてみれば、かつての写真家、山田脩二の主張そのものであった。つまり何でもない風景、何でもない事物をファインダーに収めた途端に、一気呵成に山田脩二の写真、山田脩二のモノクロームの世界へと飛翔させてしまう。

山田脩二『カメラマンからカワラマンへ』筑摩書房、1996年、p.177

たしかに山田の風景写真には“なんでもないもの”が写っているように感じられる。しかしそれは、同時代に隆盛を極めたコンポラ写真に対して言われる「日常ありふれた何気ない事象」を「何げなく日常の中に埋め込んでひめやかに、気付いた人にしか気付かれないことであるかのように撮る」傾向*5とは少し異なるのではないだろうか。コンポラ写真はその自閉性*6が批評されることもある一方で、山田の写真には、撮影者や被写体の個別具体的な物語が含まれていないとみるからだ。

たとえば風景写真の舞台が大都市・渋谷であれ荒野に囲まれた愛知県のニュータウンであれ、窯元が密集し活気をみせる常滑の街であれ、佐多岬半島や淡路島の農村であれ、あるいは船橋ヘルスセンター(1977年閉業)のようなレジャー施設内であれ、一貫して俯瞰した写真が目立つ*7。そういった写真のなかでは、人や建物や人工物、樹木や田畑が個人・個物としてではなく匿名なものの群として写り込んでいる。しかもその群の表れは、山田がシャッターを押したその瞬間にみせた状態でしかない。つまり対象は情報量の面で抽象化され、対象のある一側面がとらえられていると言えるだろう*8。

3.抽象的な写真は共有可能である

1960年代後半から70年代にかけて山田が撮影した建築写真にも対象の抽象化がみられる。たとえば、先に風景写真に関して述べたような巨視的な視点によるものとしては、「パレスサイド・ビルディング」のコア部分と、その奥に千代田区の街並みが小さく曖昧に写る写真があげられる[Fig.2]。垂直に伸びる建築と水平に広がる街が対比されるのと同時に、両者の巨大さがみてとれる。

同じく対比がみられるものに、篠原一男設計の「直方体の森」の写真がある。亀裂の空間と呼ばれる幅が狭く吹き抜けの、谷のような通路空間が黒く潰れているのに対し、玄関や庭につながる広間の空間は白く飛んでおり、室のディテールはわからないものの概念的な差異の存在が示されている[Fig.3]。

明度による抽象化に関しては象設計集団の「ドーモ・セラカント」の内観写真でも効果的で、窓の外形や、階段やシェルが反復するリズムなど、建築的な造形を他の物より明瞭に写すことで強調している[Fig.4]。

同様に抽象化によって造形が際立つ写真は多く、篠原の「未完の家」「篠さんの家」の写真のうちには、壁に沿って配置された家具や人を被写体とし、壁を白く飛ばすことで、写るもののコンポジションをグラフィック作品のように表現しているものがあるし[Fig.5]、伊東豊雄設計の「HOTEL D」の内観写真には、壁や天井の素材感は消失させて、外形を成す曲線が動的に連続するリズムを表しているものがある[Fig.6]。

以上の例からわかるように、情報量が制限されて写る山田の建築写真からは、空間の性質、それもスケール、構成、造形といった根源的な性質が明快によみとれる。山田自身、建築写真における自らの表現に「“間と寸法”の取り方、撮り方、採り方、計り方、いや、そうではなくて“魔の盗り方”」が重要だと述べており*9、山田がみた建築空間のあり方を、写真をみる者が解釈可能なように抽象化していることが想像できる。

Fig.2 パレスサイド・ビルディング
(撮影:山田脩二、設計:日建設計工務、出典:『SD』⿅島出版会、1966年12⽉)
Fig.3 直方体の森(撮影:山田脩二、設計:篠原一男、出典:『建築』中外出版、1972年3⽉)
Fig.4 ドーモ・セラカント
(撮影:山田脩二、設計:象設計集団、出典:『住宅第11集(別冊・都市住宅)』⿅島出版会、1975年)

Fig.5 篠さんの家(撮影:山田脩二、設計:篠原一男、出典:『建築』中外出版、1971年1⽉)

Fig.6 HOTEL D(撮影:山田脩二、設計:伊東豊雄、出典:『建築⽂化』彰国社、1978年3⽉)

4.建築写真の可能性とは

末筆だが、筆者は建築写真に関して研究を行っている。そのため建築写真を眺める機会が多いのだが、建築専門メディア上には情報量の多い写真——建築を概観できるような広い範囲が写る写真や、物語がそこに存在しそうななんとも言えない雰囲気をもった写真など——が目立つように感じている。そういった写真は、前項で紹介した山田の建築写真とは異なり、写真家の視点をよみとり共有することが難しい。それと同時に、建築写真は図面やテキストといった建築家自身が制作したメディアとともに建築を表現するのが一般的ななかで、建築全体をみせる役割は図面に、物語を伝える役割はテキストにゆだねてもよいのではないだろうかと考えてしまう。

写真に多くの情報を備えることによって建築家が制作したメディアを補足するという方法もあるだろうが、建築家と写真家という二者のコラボレーションといえる建築写真の役割としてはもったいない。山田をはじめ、幾人もの写真家に作品を撮影される機会のあった建築家の篠原一男は「虚構の空間を美しく演出したまえ」という見出しの下、「建築家は思うままに演出し、カメラマンはそこからさらに自分の空間を引きだし、そして、雑誌のエディターは最後の仕上げをして世に送りだせばよい」*10と述べている。建築家と写真家、それぞれの表現する建築空間が自律しつつも重なり合うとき、新たな空間が現れるということだろう。複数のメディアのなかで写真にできることについて考えていきたい。

謝辞

写真の転載にあたり、山田脩二氏ご本人にご承諾いただいたばかりでなく、あたたかいご感想まで賜りましたこと、深くお礼申し上げます。

注釈

*1 山田が撮影した建築作品とその写真が掲載された建築専門誌には、たとえば以下がある。

パレスサイド・ビルディング(日建設計工務、『SD』1966年12月)、慶松幼稚園(RAS建築研究所、『SD』1968年7月)、未完の家、篠さんの家(篠原一男、『建築』1971年1月)、桜台コートビレッジ(内井昭蔵、『SD』1971年3月)、水無瀬の町家(坂本一成、『建築』1971年5月)、虚白庵(白井晟一、『建築』1972年1月)、直方体の森、同相の谷(篠原一男、『建築』1972年3月)、粟津邸(原広司、『SD』1972年9月)、ドーモ・セラカント(象設計集団、『都市住宅』別冊1975年秋)、HOTEL D(伊東豊雄、『建築文化』1978年3月)、H邸(磯崎新、『建築文化』1978年9月)

*2 山田の瓦が使用されている建築作品には、たとえば以下がある。これらの事例からわかる通り建築家とのコラボレーションも多く、瓦の新しい使い方による創作活動に対して吉田五十八賞特別賞(1991年)を、カメラマン・カワラマン両担い手としての建築界への貢献に対して日本建築学会文化賞(2008年)を受賞している。

シルバーハット(伊東豊雄、1984年)、用賀プロムナード(象設計集団、1986年)、田崎美術館(原広司、1986年)、郷土民芸館 カサ エストレリータ(石山修武、1986年)、藤沢市湘南台文化センター(長谷川逸子、1989年)、「ゼンカイ」ハウス(宮本佳明、1997年)、淡路夢舞台(安藤忠雄、1999年)

*3 山田脩二『カメラマンからカワラマンへ』筑摩書房、1996年、pp.170-171

*4 前出、p.191

*5 「コンポラ」という言葉を最初に使ったとされる大辻清司が、雑誌『カメラ毎日』の特集「シンポジウム現代の写真——「日常の情景」について」内の下記の論考で紹介した傾向。その他には「横位置」であることや「カメラの機能を最も単純素朴な形で使おうとする」こと、日常のような写真を撮るために「自然とカメラは後へ下がり、他の日常事とともに広々と撮り込む」ことなどが傾向としてあげられた。なお、コンポラ写真の代表的な写真家としては、牛腸茂雄、下津隆之、柳沢信などがあげられる。

大辻清司「報告(1)主義の時代は遠ざかって」『カメラ毎日』毎日新聞社、1968年6月

*6 大辻は前出の論考で「コンポラ写真にあっては、(略)個人の内側にとじこもりがちである。外へ働きかける力がどんなに無力であるかを思い知らされた諦観の現われなのだろうか。あるいは目をつぶっていれば平和で平穏であるかに思えてくる世情とも関係しているかもしれない。いずれにせよ激しい動乱のさなかには生まれてこない写真である」と、丹野章は雑誌『アサヒカメラ』1969年5月号の特集「続・新しい写真表現について——コンポラかリアリズムか(4月号座談会)を読んで」において「個の内なる世界に向きなおり、そのバックミラーに映ずる日常の風景を眺めるところから、新しい何かを期待する(または期待しない)という敗北の美学」と批判している。また、多木浩二は建築専門誌において、牛腸茂雄が関口正夫と自主出版した『日々』(1971年)に対して、「牙のない若ものたち」(『SD』鹿島出版会、1971年6月)という論考で批判的な評を寄稿している

*7 次の写真集を参照。山田脩二『山田脩二 日本旅 1961-2010』平凡社、2010年

*8 ちなみに下記の論考内で批評家の多木浩二が、山田は「出来事をあらわすスタイルをとらえる」と述べている。これは筆者の主張に近いのではないだろうか。ここでの「出来事」という言葉は事件や騒動ではなく、「私たちの生活にあらわれ、しかも、ある語りをもつとき」の物を指している。

多木浩二「出来事のかたち——山田脩二の「日本村」について(イメージの劇場8)」『アサヒカメラ』朝日新聞社、1977年8月

*9 山田、前出、p.144

*10 「虚構の空間を美しく演出したまえ」は次の論考の一節で、そのうち引用箇所はp.55。また、同氏の著作『住宅論(SD選書)』(鹿島出版会、1970年)にも掲載されている。

篠原一男「住宅設計の主体性」『建築』青銅社、1964年4月、pp.52-55

その他の参考文献

飯沢耕太郎『キーワードで読む現代日本写真』フィルムアート社、2017年

冨山由紀子『コンポラ写真——日本写真史における「日常」、1970年前後を中心に』2019年(東京大学博士論文)

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建築と参照(杉崎広空/東京科学大学 建築学系 塩崎太伸研究室 博士課程)
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寄稿者
加藤 千佳
加藤 千佳
東京科学大学 環境・社会理工学院 建築学系 博士後期課程
1994年生まれ。2018年東京工業大学工学部建築学科卒業、2022年同大学環境・社会理工学院建築学系修士課程修了(工学修士)。専門は建築意匠論、とくに建築写真について研究を行う。日本建築学会が発行する『建築雑誌』2024年4月号(特集:建築画像)の編集委員を務めた
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